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地誌にみる近世大洲の歴史意識(1) 冨永彦三郎の庄屋評 [庄屋]

 近世大洲における庄屋の歴史意識について、 『大洲新谷旧記集』 などの地誌を中心に考えてみたい。
 
 喜多郡中居谷村庄屋隠居の冨永彦三郎は、 著書『大洲新谷旧記集』 (寛政12)に次のような現在の庄屋に対する意見を記している。

露峰村
是迄思ふに、庄屋とさへ有ば、先祖爰の城主、彼処の城主と今の体たらくにして恥をさらし、一ツには実を難計、聞もいぶせく思ひしが、又兵衛が書を見るに付、いか様宇和郡抔の体、大竹の部に記ごとく、乱世曲付て治らず、所々我儘なれば、上須戒の感状のごとく、戸田君御入城後も、所々征伐有て治らず、威厳も不恐故、無余儀代官も、足軽廻らしても、所々にて打殺、上にも理非分らず所風は知り給はずして、古城主を宇武のまゝにて庄屋ニ御頼有、民人も逆政に苦しむ時なれば、己然の領主庄屋とならば可然と、是迄上下となく縁を組、互に助命を勤、恩愛実真に有ければ、貢政事の程を弁へられ、安心を好む故、仕成取箇等の品々も可然様に致し、家督は古領主の分、家屋も作方望次第に事を極たるものなるべし、後に足役何人役をば限を付たるべし、猶此辺は仕成過分に定たるは、領主節仁政のなしたる大身にて有るたるものならん哉、常の事にては下モも服せず、上の意も左有理なし、又兵衛、覚右衛門が書にて漸疑を解、世治るに随ひ、卑賤に成、ぼてふり往還馬士に至迄、弥賤しむこと程旧ぬれば無理なし、鼠治りては猫には厭理也

 ここでは庄屋であれば先祖が城主であると述べている。これは戸田時代に各地の領主(城主)をそのまま庄屋にしたことから始まるが、「世治るに随ひ、卑賤に成」り「今の体たらくにして恥をさらし」ていると、庄屋批判を述べている。自身も橘城の城主の末裔であり、長年庄屋、庄屋後見を勤めてきた上での意見といえる。

次回は冨永彦三郎家について紹介する。
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コメント 4

むーみん

冨永彦三郎を調べています。
彼は冨永家に養子に入ったようですが、
親元は同族の大野家末裔の庄屋と思われますが、この庄屋の出自がわかりません。
冨永彦三郎家も、戦国期の大除城主大野直昌の兄、大野直澄(別名、橘、立花、冨永、中居谷住居)の系列とみていますが、今ひつつ系図が繋がりません、

七郎右衛門直道の父が、大野直国か大野直瀬、あるいは直範であれば
繋がるのですが、そのような史料は残っていませんでしょうか?

伊予大野家も秀吉の四国征伐以降離散し、武家として別家に仕官した支族はそこそこ記録が残っているのですが、伊予で蟄居帰農し庄屋(庄官)となった家は彦三郎ではないが、サムライとしてのたしなみが無くなっており記録や什器も無くしています。残念ですが、読み書きも出来ない子孫も増えていったのでしょうね。
by むーみん (2014-09-09 21:30) 

藤

『大洲領庄屋由来書』によりますと、彦三郎は大久喜村庄屋八郎右衛門子とありますので、実家は大久喜村本山氏ではないでしょうか。ただ八郎右衛門直貞は、冨永七郞左衛門の子とあります。七郞左衛門が誰か確定できませんが、中居谷村冨永家にも七左衛門がいますので、もともとこの冨永家から出て、彦三郎が養子として戻ってきたといえるかもしれません。
by (2014-09-09 22:28) 

むーみん

ありがとうございます。

大久喜村とは今の何処になるのでしょうか?
by むーみん (2014-09-10 06:33) 

藤

現在は内子町ですが、2005年に合併するまで五十崎町でした。
by 藤 (2014-09-10 08:34) 

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