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大洲藩の飛地、摂津池尻村4 最禅寺・万福寺と盤珪 [大坂]

1池尻の最禅寺と盤珪

 池尻には、最禅寺という寺院がある。『角川日本地名大辞典 兵庫県』(1988年)によると、大雄山最禅寺は、はじめ最福寺、明暦年間は真言宗、天和年間は浄土宗であった。元禄5年(1692)、播磨国網干竜門寺の盤珪の弟子が住職に就くと、大洲の臨済宗如法寺の末寺となり最禅寺に改名したとある(元禄5年「寺社着込帳」池尻区有文書)。その後、幕末に曹洞宗に変わり、現在は大阪府池田市陽松庵の末寺とある。元文5年(1740)頃書写の大洲藩の地誌「大洲秘録」によると、「西禅寺 禅宗如法寺末 旦家ナシ」と記される。檀家が無いと記されており、村民は他に旦那寺があったと考えられる。
 本シリーズの1で、コメントをいただいた古結氏によると、最禅寺には大洲加藤公の位牌が祭られ、4月26日に行われる施餓鬼には、武庫川添いの武庫郡と川辺郡の特産品であった蚕豆のごはんが供されるそうだ。また、同寺は俳人鬼貫とも縁が深く、梵鐘には鬼貫の戒名が刻まれているとのことであった。
 この最禅寺の本寺にあたる如法寺は、現在も大洲市柚木富士山(とみすやま)にある臨済宗の寺院である。大洲藩2代藩主加藤泰興が、盤珪のために建立した寺である。盤珪は、盤珪永琢といい、元和8年(1622) 播磨国浜田(姫路市)で生まれ、不生禅を唱導したことで知られる。平戸、大洲、丸亀藩主の帰依を請け、各地の寺院を再興、開山している。播磨竜門寺を中心に活動し、京都妙心寺218世も務め、元禄6年(1693)9月3日播州龍門寺において72歳で没した。
 大洲藩と盤珪の関係は、如法寺末の遍照庵三世兀庵嬾徴が寛政10年(1798)に編纂した「富士山志」に詳しい。泰興は、明暦元年(1655)平戸藩主松浦鎮信を介して、盤珪に師事し、大洲に迎えることを約束した。翌年春に盤珪がはじめて大洲に来て、曹渓院に寓居した。翌明暦3年春には、泰興は、盤珪のために城下の浮舟に慧日遍照庵を創建した。そして寛文9年(1669)春富士山如法寺の建立を開始し、9月5日盤珪が入寺した。その後、仏殿、奥旨軒、十輪堂、観音堂、地蔵堂が順次落慶する。盤珪は、その後も数年に一度大洲へ来ている。

saizenzi.jpg最禅寺(1990.3.24撮影)

2宇津村万福寺 盤珪建立の寺院

 最禅寺は、このように盤珪が再興した寺院の一つであった。大洲藩領内にも、盤珪が再興した寺院は数多い。「大洲秘録」によると、如法寺の末寺は最禅寺も含めて25寺ある。最禅寺と同じく伊予国外にも、備中大仙寺という末寺があるが、ほとんどが領内である。末寺は如法寺の近辺に多く、如法寺のある柚木村に3寺、東隣菅田村、その北隣徳森村に各3寺、北隣市木村、田口村に各1寺、計11寺がある。
 末寺の建立は、「富士山志」に記される主なものでも10寺ある。年代順にみていくと、寛文7年(1667)伊予郡吾川村福田寺、浮穴郡玉谷村嶺昌寺、寛文9年(1669)3月菅田村菩提寺、寛文11年(1671)9月長浜要津寺となる。その後12年あけて天和3年(1683)宇津村万福寺、貞享元年(1684)2月新谷村善安寺、市木村安養寺、元禄5年(1692)伊予郡森村大門寺、柚木村慶福院、五郎村瑞光寺と続く(郡名のないものは喜多郡所在)。最禅寺が臨済宗となった元禄5年には、大洲藩本領でも3寺が建立されている。
 「富士山志」には、それぞれの寺院の「寺記」があり、建立経過が記される。大洲城下や如法寺から東に位置する宇津村にも、天和3年万福寺が建立された。「富士山志」には「霊徳山万福禅寺記」がある。寺記の最初には「仏智居富峯、徳化流四方」とあり、盤珪が富士山如法寺にいる間、その徳は領内四方に広まったとある。天和3年に盤珪の弟子であった「主保見叟者」が「修廃址建寺」したとある。見叟には「称勘太郎、仏智曽居清谷庵勘時詣問道」の解説がつく。見叟は、宇津村の庄屋であり大野勘太郎といい、盤珪が清谷庵にいた際に弟子となった人物であった。この万福寺は、山伏が開いた寺で、見叟が荒廃した寺を再建した。寺域は、東西120歩、南北340歩あったが、見叟が良田を寄進し、藩主に願い出て、年貢免除の如法寺末寺となった。元禄2年3月見叟が71歳で死去後、息子の大野直永が20畝の田を寄進した。直永は宝永3年9月に死去したが、見叟とともに万福寺に祀られており、大野氏の菩提寺であった可能性が高い。
 この大野見叟勘太郎は、「仏智弘済禅師法語」(『盤珪禅師語録』岩波書店、1941年、103p)に、つぎのような話が記される。

師有時予州喜多郡、清谷観音堂に棲息し玉ふ、同郡宇津村庄屋勘太郎、尋常参禅し、或は勘詰すれども、機鋒峭峻にて当たりがたし、一日吉野與次左衛門と倶に清谷に詣す、途中吉野に語て曰、我参詣するごとに、師勘太郎きたかと仰らる、今日も定て例の如くならん、師の若し勘太郎きたかと仰あらば、我曰、そう云ふ者は誰ぞと、ニ人清谷に抵る、師出て吉野に挨拶して、勘太郎には言はなし、良久して、勘太郎云く、いよゝゝ御機嫌よしやと申ければ、師曰、そう云ふ者は誰ぞと、勘太郎擬議して懺謝す

 清谷観音堂に滞在していた盤珪に、大野勘太郎が参禅し訪問したことが記される。「霊徳山万福禅寺記」の記述にも、同様に清谷で道を問うたとある。清谷は宇津村に隣接する菅田村阿部にある堂で、神南山の中腹に馬頭観音が祀られ、現在も33年に一度の開帳が行われている。
 万福寺はその後、棟札によると「霊徳山万福寺境内/庚申堂再建/安政五戊午歳三月七日吉辰初メ四月十日建/施主庄官大野藤七郎直良/大工防州八代嶋住良八造之」とある。安政5年(1858)3月7日、境内の庚申堂を庄屋大野藤七郎直良が再建した。この直良は、見叟、直永の子孫である。なお大工の良八は、「防州八代嶋住」とあるように、近世後期から明治期に活躍した長州大工である。長州大工とは、周防大島の大工が伊予や土佐へ出稼ぎしたもので、寺社建築に優れた大工集団であった(『東和町誌』資料編1長州大工、1993年)。明治5年(1872)10月の宇津村「社寺小堂絵図御届控」(旧菅田村役場文書)には2畝19歩とあり、当時まで存在したことが確認されるが、現在は廃寺となり、その場所は栗畑となっている。

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コメント 2

古結 義隆

 大変申し訳ありません。最禅寺の施餓鬼は4月26日ではなく5月26日でした。お詫びして訂正させて頂きます。
 4月3日には春日神社の祭礼への参加、同4日には最禅寺の住職にお願いして首塚の供養など、村の役員として交代早々の仕事が重なり、4月には相当の思い込みがあったようです。
 大洲藩の池尻陣屋の件は個人的にはほぼ特定できました。想像は際限なく膨らみ、これが探究心に繋がります。しかし、この件は資料の裏付けはありませんし、プライバシーの問題等を考慮すると記憶の中に留めておくのが適切ではないかと考えています。

by 古結 義隆 (2012-03-28 06:53) 

藤

古結 様
最禅寺の施餓鬼の情報ありがとうございます。池尻陣屋の位置も関心がありますが、ご指摘の通りプライバシーや史料の問題があるとのことですので、新たな史料が発見されるまで、記憶にとどめておきます。

by (2012-04-05 22:39) 

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