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「温故集」にみる大洲藩主と家臣8 天明2~4年の大洲藩と災害 [温故集]

 つぎに「温故集」の成立の背景として、当時の大洲藩の状況についてみていきたい。この時期、近世の3大飢饉のひとつ天明の飢饉が全国規模で起こった。すでに『大洲市誌』や『愛媛県史』近世下にも指摘されるように、大洲をはじめ伊予諸藩でも、災害が多発し飢饉が続いた。桜井久次郎『大洲新谷藩政編年史』によると、天明期には災害とそれに関する法令が数多く見られる。
 天明2年(1782)7月22日、大洲では大風雨となり、肱川の出水1丈7尺(5.2メートル)、8月20日にも大風雨で、出水1丈5尺(4.5メートル)、翌天明3年8月12日には、2丈8尺(8.5メートル)もの大洪水となった。藩では、洪水時の肱川の増水を計測しており、元禄2年(1689)7月17日の洪水2丈3尺8寸(7.2メートル)の記録以降、幕末まで「加藤家年譜」「大洲商家由来記」に記される。『愛媛県史』近世下(477頁)にまとめられた肱川の出水量の図をみると、天明期を境に幕末まで、2丈5尺を越える洪水が多発している。
 この8月12日洪水以前の、3月6日にも藩は、領内の難渋者に対して、2ヶ月間1日1人前米5勺ずつを支給すると触を出している。そこには「追々願有之候難渋者」「及飢体相成候而者不相成」と、前年の洪水の影響か難渋者が増加している状況、その上で飢饉を未然に防ごうとする様子が記される。そして前年度の倍近い出水となった8月12日以降、21日には、家臣に対して節約のため、充行は100石に付9人扶持との達が出た。27日には領民に対しても、藩財政急迫のため、家中の充行の引き下げの例を出し、領内も倹約するように触が出ている。財政悪化の理由は、災害だけではなく、御内辺差し支えなど幕府からの公役(安永8年(1779)参向伝奏御馳走役など)等も原因であるが、「村々不作等打続」と、不作も一因と考えられる。この年の12月3日には、当年は格別の節約となり家中が難渋をしているとして、心附けとして1ヶ月分程充行を追加する達が出た。
 つづく天明4年1月には、藩は領内に対して、米や雑穀の他領への移出を禁止する津留や、さらなる節約を命じた。その理由には、「去年以来諸国一統米直段別而高直」と全国的な米価の高直のため、「御領内迚も困窮強ク借用筋茂差支、村々飯料甚無覚束候」と領内の困窮、食料としての米の減少であった。そのため津留の他、伊勢参宮禁止や普請の延期、婚礼や衣類の質素が命じられた。実際に宝永3年(1706)以降、毎年記録のある米豆御蔵相場をみると、天明元年米78匁、豆74匁が、天明3年には米110匁、豆90匁と、約1.4倍になっている。
 6月には、藩は幕府が出した米価暴騰による米買占や徒党暴動の禁止、時疫流行の薬の触を領内にも通達した。この時期、全国的な不作による米価暴騰が問題になっていた。流行病である時疫薬の製作法は、以前の大飢饉である享保飢饉の際に出された触であり、幕府も飢饉を警戒していたと思われる。
 6月6日には、長く雨天が続き、大洲八幡宮で晴御祈祷があった。長雨による洪水を未然に防ぐため、藩主導で鎮守の八幡宮に祈祷した。この年、洪水はなかったが、8月21日前年と同様、藩は財政差支のため、充行は100石につき20石となった。

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