「温故集」にみる大洲藩主と家臣22 神山・郡・河田家の養子 [温故集]
この福山藩水野家家中三村家からの養子が、神山家5代吉充であり、泰恒の児小姓から、元服後中小姓となり、泰温の代に新知として100石を拝領した。その後目附役、大坂留守居役を勤め、延享2年(1745)50石加増され150石となった。寛延4年(1751)在職中に大坂で死去し、実子の安左衛門が幼少のため、再度養子となった。この養子6代左内も河田源右衛門の弟であった。養父吉充から100石を家督相続しているが、加増50石分は養子のためか削除されている。左内は、泰武が部屋住時代の御側勤、納戸役を勤めたが、明和2年(1765)に、兄河田源右衛門が病死し実子がないので養子として、実家へ戻った。この左内は、河田助右衛門正福として実家250石を継ぎ、天明2年(1782)物頭格、同5年長柄奉行、寛政3年(1791)先手組物頭となった。7代安左衛門吉和は、形式的には6代の養子であるが、本来5代の嫡子であり、100石を家督相続し御側勤となった。8代九郎右衛門吉亨は再び養子であり、郡市兵衛の二男であった。安永4年(1775)養父の跡を15人扶持で相続し、翌年御側勤となった。5代死去後、約20年間で3人も当主が交替したため、15人扶持にまで減少した。
このように神山覚内の家は、4~6代の養子を河田家、8代を郡家と養子の多い家である。しかし「藩臣家譜」を調べてみると、この3家は交互に養子縁組みしていることがわかる。郡家は伯耆出身、初代作兵衛は元米子藩主中村一忠の家臣である。中村家廃絶直後に米子へ入った加藤貞泰に仕官している。その郡家6代郡市兵衛正照は、河田助右衛門三男の治左衛門であり、8代郡嘉十郎正得は、8代神山九郎右衛門の長男であった。一方の河田家は、初代助右衛門貞高が、元阿波国蜂須賀家の家中であり、郡家と同じく他家中からの召し抱えであった。貞高は、泰興の代に嫡男泰義の部屋住の児小姓に召し出され、元服後は中小性となった。泰義は寛永6年(1629)年生まれ、3代藩主候補であったが、寛文8年(1668)40歳で死去し、藩主は泰義の嫡男泰恒が継いでいる。
8代神山九郎右衛門は6代郡市兵衛の二男であり、郡市兵衛は4代河田助右衛門の三男、4代河田助右衛門は6代神山左内と、この3家は養子縁組によって密接につながっていた。
このように神山覚内の家は、4~6代の養子を河田家、8代を郡家と養子の多い家である。しかし「藩臣家譜」を調べてみると、この3家は交互に養子縁組みしていることがわかる。郡家は伯耆出身、初代作兵衛は元米子藩主中村一忠の家臣である。中村家廃絶直後に米子へ入った加藤貞泰に仕官している。その郡家6代郡市兵衛正照は、河田助右衛門三男の治左衛門であり、8代郡嘉十郎正得は、8代神山九郎右衛門の長男であった。一方の河田家は、初代助右衛門貞高が、元阿波国蜂須賀家の家中であり、郡家と同じく他家中からの召し抱えであった。貞高は、泰興の代に嫡男泰義の部屋住の児小姓に召し出され、元服後は中小性となった。泰義は寛永6年(1629)年生まれ、3代藩主候補であったが、寛文8年(1668)40歳で死去し、藩主は泰義の嫡男泰恒が継いでいる。
8代神山九郎右衛門は6代郡市兵衛の二男であり、郡市兵衛は4代河田助右衛門の三男、4代河田助右衛門は6代神山左内と、この3家は養子縁組によって密接につながっていた。
2014-01-26 16:26
コメント(7)
トラックバック(0)
いつも更新を楽しみにしております。
河田氏家譜略の記述によると、河田貞高が息子の才蔵貞幸を神山弥五八家に養子入りさせた背景には、貞高の妻が神山弥五八の娘という親戚関係であったことがあげられます。簡単にいうと、妻側の実家が御家断絶になりそうだったため、養子で継がせたということのようですね。
by 黒い翼 (2014-01-27 12:56)
コメント、ご教示ありがとうございます。久しぶりの更新でした。「河田氏家譜略」ですか、やはりその家の資料をみないと判明しないこともありますね。
by 藤 (2014-01-27 13:31)
はじめまして。
大州のことを調べていてここに辿り着きました。
お尋ねしたいのですが、城主が使用していた漆器類について何かご存知ありませんか?
博物館にも漆器の紹介が見当たらず、何も残らなかったのか気になって調べています。
ご存知内容でしたら読み捨ててくだされば助かります。
by ぬしおか (2014-03-18 17:59)
大洲藩加藤家の漆器ですよね。
それでしたらやはり大洲の市立博物館に問い合わせるのがよいかと思います。
他藩でしたら道具帳など残っており、由緒などが判明するのですが。
by 藤 (2014-03-18 22:56)
藤様へ
お返事有難うございます。
漆器類は最後の藩主である加藤家を探すのが良いのですね。
とても参考になるお話有難うございます。
祖母の遺言で大洲藩の漆器を調べておりましたが、私自身他県におり、雲を掴むような話でこまっておりました。
加藤家については不勉強な為、これからおりを見て勉強したいと思います。
博物館にも問い合わせて見ます。
有難うございました。
by ぬしおか (2014-03-23 09:26)
はじめまして曽祖父が神山家から養子に出されたと親戚に聞かされ、調べておりましたらこちらのサイトに辿り着きました。自分の祖先かどうかよく分かりませんが宜しくお願いします。
by koyubi (2015-07-02 21:21)
コメントありがとうございます。
曾祖父の方ですと明治くらいの人でしょうか。ここで使っている史料は、江戸時代の後期、1800年のはじめくらいまでで、幕末・明治のことがわかりません。神山家はたくさん分家していますが、どの系統の家か、系図や史料などでおわかりになるのでしょうか。
by 藤 (2015-07-04 11:33)