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南千住砂場と大関横丁 [江戸]

senzyu.jpg(「南千住砂場」の合鴨南蛮)
 三ノ輪は都電の発着する駅として有名である。東京で唯一残った都電は、早稲田まで町中をゆっくりと走っている。都電の北にある三ノ輪商店街は、アーケードはあるが、細長い下町の商店街である。
 そこに銭湯と向かい合って建っているのが「南千住砂場」、古風な店づくりの蕎麦屋だ。関東大震災の後、麹町から移り、現在の建物は昭和29年に建てられたという。この「南千住砂場」は砂場系そば屋の元祖のひとつであり、現在の当主で一四代目である。冬季限定の合鴨南蛮は、合鴨とつくねが入り、とても暖まる。焼き海苔も江戸以来の手法である焙炉(ほいろ)に入って出てくる。焙炉は二段になっており、箱の底に炭火を仕込み、その上に海苔を入れて湿気させないようにしておくものである。
oozeki.jpg(大関横丁のバス停)
 「南千住砂場」を出て南に歩いていくと「大関横丁」という場所がある。台東区と荒川区の境界付近、明治通りと旧日光街道である国道四号線の交差点あたりだ。ここは下野黒羽藩主大関家の屋敷があったところで、その傍らを通る道が「大関横丁」と呼ばれていた。大関家は、中世以来の北関東の名家那須氏に仕える有力国人層で、天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉の小田原征伐の際に参陣し、一万石の大名となった。関ヶ原で徳川家康に従い、一万八〇〇〇石の大名として、一度の転封・改易もなく、明治まで黒羽城を本拠とし続けるという、関東の外様大名としては珍しい大名であった。
 この一一代藩主が大関増業(ますなり)で、武芸・兵学・歴史・医学・天文学を学び、そして藩政改革にも努めた。実は大洲藩六代藩主加藤泰〓(やすみち)の八男である。五〇年間気象記録をとり、で全国各地の名水の比重などの水質分析を行い「喫茗新語」(きつめいしんご)にまとめた。 天保一一年(一八四〇)には全七〇巻の蘭学医学書「乗化亭奇方」(じょうかていきほう)を記し、内科・外科をはじめ救急看護まで網羅し、そして薬などはその効用を確かめるという徹底ぶりである。この増業の膨大な著作研究は、大名というより、学者といえるのではなかろうか。
(愛媛新聞「四季録」2003.11)


南千住砂場


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