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八幡神社の御神幸行列

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 大洲城北西に位置する場所にある八幡神社では、毎年11月2日大洲町内を練り歩く御神幸行列が江戸時代より代々伝えられ現在も行われている。
 この御神幸行列は、江戸時代において行列の参加者は、氏子の村々に割り当てがなされていたようであるが、これ以外に藩より長柄組、鉄砲組が直接参加する他、藩主の馬も3頭参加していた。そのためか行列の通行の際には、一般の人々は腰を屈めて拝し、町家各家で洗砂を用意して行列の前には敷き道を清めるほどであった。現在においてもこの行列、特に御長柄の列を横切ることはご法度とされている。
 では、このように現在も伝えられている行列であるが、整備されたのはいつ頃であろうか。大洲市誌によれば、兵頭式部守敬(1709~1755)の頃と伝えられているが、行列で使用されている8枚の楯の中に次のような文字が記されている。
 「寛保二壬戌□七月七日造為神楯八枚而納之於伊予国喜多郡八幡宮之宝殿焉蓋詳審其来緒昔在彦狭知命作白楯 而覆 神籬矣饒速日命以磐盾而護 禁門焉夫楯之為物也禁除不浄供奉潔精之霊器也願主慇懃為祈当城主加藤氏 従五位下遠江守藤原朝臣泰見武名永耀及郡下勇鋭先隊之十有一伍廣厚稱詞竟奉焉矣
   于時
  今上皇帝御宇
   寛保二壬戌秋八月十五日
          神主 兵頭式部守敬謹誌 」
 これによれば寛保2年に楯を8枚造り八幡神社宝殿に納めたことが記されている。またこの楯は「禁除不浄供奉潔精之霊器」とされ、大洲藩主加藤家の武名永耀や郡下勇鋭先隊15名の廣厚を祈るものとも記されている。
 このように八幡神社の宝物として、さらには御幸行列に使用されている道具として楯が作られたことは、この頃又はこの前後に行列の形態が整えられたものと考えることができる。
 こうして形態が整えられた行列であるが、現在のように八幡神社の離宮がある総社宮へ大洲町から肱川橋を通り、中村、常磐町の往復を練り歩き、多くの人々の目に触れることはなかった。総社宮へ八幡神社のお旅所が移ったのは、昭和初期の頃である。そのため、江戸時代における行列は、八幡神社の離宮(御旅所)がある対岸に八幡神社下の渡舟(柿ノ瀬渡し)で渡っていた。
 そして、このお旅所で神事を終えると、その行列は中村河原沿いを通行し大洲城下へ向かった。つまり、江戸時代においてお練りの行列は、現在のように町中を通らずに河原の方を通行していたのである。
 それでは、いつ頃より中村の町中を通るようになってきたのであろうか。それは、天明8(1788)年8月28日、第10代藩主加藤泰済の頃、河原を通行するルートから中村にあった武家屋敷の前を通行するルートへと変更されたことによる。
 江戸時代大洲藩の武家屋敷は大洲城下と対岸の中村に存在していたが、なぜこの頃にルートの変更があったかは不明である。また、天明8年には中村武家屋敷前を通行するとあるのみで、町人町である常磐町を通行したかどうか不明である。しかし、天明8年以前の河原沿いのルートに比べて、中村の武家屋敷前の通行へと変更されたことにより、従来まで中村の道沿いではあまり見ることのできなかった御神幸行列が、見ることができるようになったことは、中村側の人々に感動的なことだったものと考えられる。
 八幡神社のお練りは、時代とともに徐々に道順を変更しながら現在のルートになり、多くの人々の目にふれるようになってきたのである。

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