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大洲藩の飛地、摂津池尻村2 大洲藩預所と加藤泰堅 [大坂]

1安永9年の領地交換

 桜井久次郎「大洲新谷藩政編年史」によると、同年4月2日「(加藤)泰候、かねて願い出た幕領南神崎村と領分風早郡小浜・粟井村・大浦村之内・摂津国武庫郡南野・池尻村との替地、この日認可され、直ちに御預所を命ぜられる」とある。大洲藩9代藩主泰候が、幕府に対して幕府領の南神崎村と藩庁から遠い風早郡と摂津国武庫郡の領地交換を願い出たものである。
 4月2日江戸留守居役の戸田正蔵は、「御勝手方御懸り御老中松平右京大夫様御用人中」から呼び出しを受け、すぐに御用人のところへ向かった(「戸田正蔵年中役用扣」)。この老中松平右京大夫は、上野国高崎藩主松平輝高である。宝暦8年(1758)から老中となり、大洲藩の替地が行われた前年の安永8年(1779)に老中首座、勝手掛を兼任している。戸田は、藩主宛の書付を受け取った。そこにはつぎのように記されていた(「戸田正蔵年中役用扣」)。

御料所伊予国南神崎村之儀、此度願之通摂州伊予国之内と村替被仰付、右摂津伊予国上ケ知高千三百五拾四石余、御預所ニ被仰付候間、御預所諸事御仕置等入念可被申付候

 大洲藩の願いの通り、伊予国小浜・粟井・大浦村、摂津国南野・池尻村計5か村1354石分を幕府領預地とし、幕府領南神崎村を大洲藩領にと決められた。この時、幕府に提出された郷村高帳には、摂津国分は池尻村503石2斗5升8合、南野村96石7斗4升2合、合計600石である。

2大坂町奉行加藤泰堅

 この交換の原因は、延宝2年(1674)年にまでさかのぼる。2代藩主加藤泰興は、二男であった加藤泰堅(慶安元年(1648)生)に延宝2年1500石を分知した。その後、泰堅は幕臣に取り立てられ、元禄2年(1689)持弓頭をへて、元禄4年(1691)1月大坂町奉行に任ぜられ、500石加増、2000石となった。しかし元禄8年(1695)11月泰堅は大坂町奉行職を免ぜられ、領地を没収、陸奥棚倉藩内藤弌信に預けられる。この免職は、『徳川実記』によると、「これは職事に怠り、かつ同僚にもはからず、新儀をおこし、属吏等に市人の賄賂をいれしめしによてなり」(常憲院殿御実紀32)とある。詳細は不明であるが、手代の賄賂事件の責任をとったと考えられる(藤井嘉雄『大坂町奉行と刑罰』(清文堂出版、1990年、407頁)。
 翌9年大洲藩は、幕府に没収された1500石分を米で返納するよう命じられる。この1500石は領内の新田高を宛てたもので、地方知行のように個別の村を指定していなかった。そのため領地没収後、最初1500石の5ヶ年平均として現米410石を大坂の代官所へ上納していたが、相場による銀納となった。宝永元年(1704)から伊予国宇摩郡の別子銅山への廻米、翌年から銀納に戻る。これが正徳2年(1712)6月、幕府から1500石の上地を命ぜられ、南神崎村を幕府領とした。寛政9年(1797)年9月の加藤作内(泰済)の「御旧領地所御願戻シ被成度願書」(「江戸御留守居役用日記」所収)に詳しい
 南神崎村は、慶長年間宮下村と上野村に分村していたが、幕府には届け出ていなかった。正徳2年に幕府領、享保9年から松山藩預地となり、支配が錯綜し、水論など発生していた。そのため、大洲藩は領地の交換を願い出て、安永9年南神崎村全村を藩領化することができた。

大洲藩領忽那.png

領地交換の村、★が南神崎村


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