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大洲藩の飛地、摂津池尻村3 もう一つの飛び地南野村 [大坂]

1三給の村

 池尻村と同じく、もう一つの飛び地が南野村である。池尻村の東南、山陽新幹線のすぐ南に位置する地域である。南野村は、『角川日本地名大辞典 兵庫県』(1988年)によると、はじめ幕府領、元和3年(1617)一部が尼崎藩領、伊予国大洲藩領となり、幕府・尼崎藩・大洲藩の三給となる。その後、元禄7年(1694)幕府領分は武蔵国忍藩領、安永9年(1780)大洲藩領は幕府領(大洲藩預り)となり、文政6年(1823)忍藩領分は幕府領にもどったが、文政11年幕府領はすべて尼崎藩領となり、以後全村が尼崎藩領であった。 幕府・尼崎藩・大洲藩三給時代の村の概要をしめす史料「元禄三年南野村明細帳」(『伊丹市史』4史料編Ⅰ、365~367頁「前田俶伸文書」)が現存する。明細帳によると、領主は、幕府領の京都代官小堀仁右衛門、尼崎藩青山播磨守、大洲藩加藤遠江守であった。三給や相給など「○○給」と呼ばれる村は、複数の領主が支配していたもので、畿内近国、関東に多い支配形態である。公家や寺社など小規模領主の多い京の近郊では百給などが存在していた。
 明細帳からは、村がどのように三給になっていたかよく分かる。南野村の家数は合計131軒、その内幕府21軒(16%)、尼崎藩86軒(66%)、大洲藩24軒(18%)である。3分の2の大半が尼崎藩領、幕府、大洲藩領はほぼ同じである。石高でみると合計903.974石、その内幕府63.268石(7%)、尼崎藩743.964石(82%)、大洲藩96.742石(11%)である。8割以上が尼崎藩で、つぎに大洲藩、幕府領となる。人数は合計758人、その内幕府104人(16%)、尼崎藩516人(66%)、大洲藩138人(18%)と家数の割合とまったく同じである。家数と石高では三給の割合が少し違う。石高制が基本の近世においては、石高を基準に三給割合を決め、家や人との内訳は、村が決めていった結果、同じような割合になったと考えられる(水本邦彦「畿内・近国社会と近世的国制」『近世の郷村自治と行政』東京大学出版会、1993年)。石高や家、人口と同じように、牛馬も三給であった。ただ牛の場合は、尼崎と大洲藩の村民が共同で所持する「相合持」という制度があったことがうかがえる。以上の内容を表とグラフに表すとつぎのようになる。

表 元禄3年南野村の三給の様子
元禄三年南野村明細帳.png

2南野村の寺社

 この「元禄三年南野村明細帳」には、寺社などの宗教環境も記され、南野村には氏神が2社、寺が4軒あった。氏神は、牛頭天王社東西40間、南北25間と、天神社東西19間、南北29間であった。両者ともに「宮座之内、年老持、神主壱人」とあることから、神社の信仰集団である宮座があり、そのまとめ役に年老がいて、その宮座が所持する神社で、神主が1人いるとしている。まとめ役は乙名や年寄などとも称される場合がある。牛頭天王は祇園精舎の守護神であり、京都祇園の八坂神社、愛知の津島大社などの祭神である。薬師如来や素戔嗚尊の垂迹であり、悪疫を防ぐ神である。牛頭天王社は、昭和20年(1945)、少名彦神社を合祀し、現在は南野神社となっている。
 寺院は浄土宗知恩院末の了福寺、真宗西本願寺末の正念寺、教善寺、真宗興正寺末の善正寺がある。了福寺は僧1人、牛頭天王社の境内にあり、神仏習合の神宮寺的な存在とも考えられる。現在も南野神社と了福寺は同じ境内にある。真宗の3寺は、いずれも僧1人の他、弟子や男女数が記され道場的な施設であった。また年貢地であり、屋敷地の間数が記されている。寺のなかでは了福寺のみ年貢を免除される除地となっている。
 その他、村明細帳には、南野村の範囲が東西65間、南北300間と記される。続けて東富松村へ8丁32間、塚口村へ13丁16間など、近隣の村への距離や方角が記される。最後の奥書には作成者の名前があり、南野村庄屋新右衛門、安右衛門、弥一右衛門の3人であり、これらは幕府・尼崎藩・大洲藩それぞれの庄屋であった可能性が高い。元文5年(1740)頃書写の大洲藩の地誌「大洲秘録」によると、南野村は庄屋弥一右衛門とあり、明細帳の弥一右衛門と一致しており、大洲藩庄屋であった。

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