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「温故集」にみる大洲藩主と家臣4 小林次秀・多田義宴・虚白 [温故集]


 玄透の会に集まった同志は、小林次秀、多田義宴、虚白の3人とあり、それぞれ「藩臣家譜」により各人について述べていく。小林次秀は、武左衛門、100石、享保5年(1720)に父清太夫から家督を相続した。小林家は、次秀の祖父金左衛門が、寛文7年(1667)150石で大洲藩に仕えた新しい家である。金左衛門の父善右衛門は広島藩浅野家に仕えており、その先祖は朝比奈と称し、浅野但馬守(長晟)とともに朝鮮出兵したと記す。金左衛門は、部屋住みで江戸に居住し、小出大隅守と内縁関係にあり、泰興の人となりを聞いて、兵助(泰興3男、池之端加藤家初代)の取りなしで家臣となった。
 小出大隅守とは、寛文8年(1668)まで和泉国陶器藩(1万石)の2代藩主であった小出有棟と考えられる。小出家と加藤家は姻戚関係にあり、小出有棟の伯父小出吉政(但馬国出石藩主)の娘が加藤貞泰の室、吉政の次男小出吉親(丹後国園部藩主)の娘が加藤直泰の室である。小出家は泰興・直泰の分知問題に際して、元和9年(1623)閏8月、泰興の家督相続に関する親族5人衆よりの定書に小出大和守(吉英)、小出信濃守(吉親)、寛永16年(1639)6月、内分書付の5人の扱衆として、小出大和守(吉英)、小出大隅守(三尹、有棟の父)が名を連ねる有力な親族家であった(「北藤録」14)。加藤家の親族である小出家を介しての仕官であった。浅野家の小林家は、善右衛門の次男伊右衛門が相続し、現在に続いていると記す。次秀自身は、村上治庵の三男で小林家の養子となっている。
 つぎの多田義宴は、与市兵衛宜清、100石、元文元年(1736)に父与市兵衛宜賢から家督を相続した。事蹟の記述はなく、安永5年(1776)息子良蔵宜兄に家督を譲っている。多田家は、義宴の5代前七兵衛が、貞泰の米子藩主時代に150石で仕えている。その後50石加増されるが、祖父の平蔵義房の代に、幼年相続のため100石となった。またこの多田家は、「大洲秘録」によると「本国甲斐多田淡路末孫」とあり、武田家臣多田淡路守三八郎の子孫の可能性があるが、詳細は不明である。義宴自身は、森権兵尚政の三男で多田家の養子となっている。
 最後の虚白は、「予陽叢書」解題では大橋虚白と推定するが、生存時期が合わず、桜井久次郎氏も「大洲新谷藩政編年史」では不明とする。大橋虚白は、作右衛門重恒で、泰興の代に家督相続している。重恒は、加賀藩大橋九郎兵衛の4男であり、2000石の大洲藩の家老家へ養子に入った。
 虚白については不明であるが、小林家は、次秀の祖父の代に新しく取り立てられた家臣であり、小林、多田両人ともに養子であるという共通点は見いだせる。それらが玄透の会の参加理由かどうか、また玄透との関係などは不明である。
 虚白は序に、つぎのように記している。

瓶笙に松風をならし、窓燈にはなを咲せて尋ねとへど、元より愚かなる我心には、住よしの岸に生てふ忘れ草のみ茂りて、樗里か囊にも保ちがたければ、硯の海に筆の釣して、形斗書とヾめぬ。

 文章全体に、和歌・謡曲、漢文などの言い回しや言葉が随所に使われている。住吉の忘れ草は、「古今和歌集」にある壬生忠岑の「住吉と 海人は告ぐとも 長居すな 人忘れ草 おふと言ふなり」など、すでに定型の言い回しであった。「樗里か囊」は、中国の秦の恵文王の異母弟であった樗里疾であり、機転が利く秦の智嚢と呼ばれていた人物であった。またこれより前の文でも、「難波の浦のよしあしいはん」とあり、謡曲蘆刈の小謡にある「むつかしや、難波の浦のよしあしも」などと関連がある。
 序の最後には、「元より温故知新の為にもあらず、過し昔のよきもあしきも、賢きも拙きも交へて爰に書留て、月日経ん後の懲し勧る一毛にもならばや」とある。昔語りを書き留めるのは、温故知新ではなく、賢も拙も後の懲し勧るための参考にとある。文末には宝暦4年(1754)9月末に、「野々村翁の亭に此会を初めぬ」と結ぶ。
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