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「温故集」にみる大洲藩主と家臣5 温故集の成立と野々村光周、神山政孝 [温故集]

  「温故集」自体の成立については、神山政孝の「跋」に詳しく記され、野々村玄透の息子光周がまとめたとしている。跋の書き出しは、2で紹介した玄透に関する内容で、続いて「温故集」は、加藤家代々のことを玄透が聞き置いたものとする。そしてこれまでみたように、後に、友人や若輩の要請に応じて話したことを、傍にいた虚白などの人々が書留めたとある。
 光周が大坂勤役の際、玄透が死去し、家に帰って遺品を調べたがこの「温故集」は見つからなかった。その後、光周が60歳をこえ、玄透没後23年が過ぎた天明3年(1783)秋、偶然反古のなかに「温故集」の草稿を発見した。喜んで、友人に頼んで謄写し、父玄透のかたみとして、後世に伝えたとする。これが「温故集」再発見の経緯である。
 光周は「藩臣家譜」によると、200石、野々村彦左衛門、光遐、光英ともいう。元文元年(1736)9月22日、玄透より家督相続し、宝暦6年(1756)には御内分方格式郡方役同然となる。翌7年冬に御内用のため、大坂へ行き御留守居役を兼帯した。玄透が死去したのもこの時と考えられる。翌8年郡奉行本役となるが、明和4年(1767)願いにより御役御免、長年の勤役によって50石加増となる。また安永7年(1778)には、かねて本家の加藤光豊より願い出ていた、本姓の加藤の名乗りの許可を得た。天明2年(1782)に隠居し、隠居料として50石拝領した。「温故集」は、光周隠居直後の発見であった。これ以外に、寛延4年(1751)訂補とされる「大洲秘録」によると馬廻を勤めている。
 跋は、その後神山政孝の感想・意見が続く。神山は光周の依頼で跋を書くことになったが、「温故集」を見ると、文(装飾)がなく、質朴そのままである。後世の戒めが少なくないので、この書を読むものは茶談としないようにと記す。神山は、跋に「華瀬の老漁神山政孝しるす」とあり、城下の南の花瀬山に居住していたと考えられる。神山家は数家あるが、政孝の祖神山市郎右衛門は、美濃生れ、貞泰の黒野時代に召し出され、100石、摂津池尻陣屋で大坂御用を勤めた。
 政孝は「藩臣家譜」によると、市郎兵衛、喜学、130石10人扶持とある。寛延元年(1748)部屋住の時代に御手廻を命じられ、4人分高15石拝領、宝暦2年(1752)家督相続、引き続き御手廻勤、宝暦11年江戸元〆、明和5年(1768)郡奉行町奉行兼帯となる。安永8年(1779)病気のため役儀御免を願い出たが、保養してそのまま勤めるようにとあり扶持5人分加増、天明3年御替地の支配が認められ30石加恩された。同5年町奉行は御免となったが、御長柄組御預、郡奉行はそのまま、天明7年(1787)御長柄組を御免の後、御先手組御預となる。寛政元年(1789)これも御免となるが、御普請方支配右組御預となる。寛政3年、息子の神山定馬政寛に家督を譲る。
 政孝に関する話として、天明7年2月29日、泰候が金山出石寺に参詣した際の記録がある。この時、大洲町の組年寄長門屋久左衛門徳真が、神山市郎兵衛の命により、高山の一本杉に箱根永閑屋を写した甘酒店をつくり、称美されたという記事がある(「積塵邦語1」)。この趣向、政孝か長門屋、どちらの発案か不明であるが、江戸に行ったこともある政孝が考案したものではないだろうか。
 実は、政孝の曾祖父の兄の兵左衛門家の妻が、玄透の姉妹にあたり、神山家と野々村家は親類でもあった。また光周は郡奉行として政孝の先輩にもあたる。このような関係から、政孝が「温故集」の跋を書くきっかけになったのではないかと考えられる。
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