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「温故集」にみる大洲藩主と家臣9 天明6、7年の大洲藩と災害 [温故集]

天明5年(1785)は、災害は起こらなかったが、8月25日藩士への充行は昨年通りと達せられた。米豆相場は、天明4年米110匁、豆100匁であったが、5年には米90匁、豆110匁と、米は下がり、豆は上がっている。前年までの気候不順の影響は続いていた。
翌天明6年7月2日、大洲は雨天続きとなり、八幡宮で晴の祈祷が行われた。続いて7月13日江戸でも、暁より雨が降り19日大洪水となり、大洲、新谷藩屋敷は床上まで浸水した。この雨の影響か7月27日藩の替地(伊予郡)代官所は、稲の虫害防除のため村々に鯨油を世話している。代官所では領内の鯨油流通を心配し、瀬戸内方面で調達を行い、わずかに9挺(1挺あたり3斗9升入)を得た。8月25日引き続き藩士への充行は、昨年通りとなった。米穀の相場は、米130匁、豆92匁、5年に比較して米は1.4倍上昇している。
川田資哲によって「温故集」が完成したのは、この年の閏10月であった。しかし、災害は引き続き、翌天明7年には大規模な災害が発生している。まず4月6日雨が降り続いて麦作に支障がでたので、金山出石寺において晴御祈祷が行われた。以前にも記したが同年2月29日に、泰候が出石寺を参詣しており、出石寺での祈祷は何らかの関連があったと考えられる。4月25日には強雨で洪水となり、出水2丈9尺5寸(8.9メートル)、死者が5人もでており、藩は床上浸水の家中に手当を与えた。
 4月28日宇和島藩の「村候公御代記録書抜」によると「此間之大雨大洲洪水、須合田辺大水之由」と記す。その宇和島藩でも、大雨による潰抜が各浦で発生し、計10人の死者が出た。6月13日の江戸留守居役から幕府に提出された出水被害届にも、山津波の状況が記される。洪水の前々日23、24日は季節と違い酷暑となり、夜に大雨が降り25日朝急に洪水となった。そして山や平地から水が湧き、山津波が発生し、領内各所の堤や道橋に被害が及んだ。ちょうど田植え時期であったため、苗・苗代が流された他、田に砂が入り復旧の見通しが立たない場所もあった。その上、3月頃より雨が続き、麦が不作のところに洪水で水腐りとなり、野菜も同様の状況となり、食料生産全体に打撃となった。 城内にも水が押し入り、溺死者も数多く、損毛高も不明であり、藩は「是迄無之洪水」と記している。新谷藩では6月16日新谷稲荷屋利右衛門が「大飢饉」のため飢人へ、銀を差し出している。これより前に大洲藩は、幕府より関東や伊豆の川普請を命ぜられており、「莫大之物入」と記しており、現実より過大な申告とも考えられる。しかし翌8年1月14日の報告では、損毛高は田16055石、畑10203石、井関の破損4853ヵ所、堤の破損19648間、山崩れ10602ヵ所、流家115軒、潰家333軒、倒木540本とあり、被害の大きい洪水であった。洪水後の7月4日泰候は28歳の若さで死去する。
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