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「温故集」にみる大洲藩主と家臣21 神山家の養子と福山藩水野家 [温故集]

 神山彦太夫の次男百兵衛は、松久百兵衛と名乗り、生国美濃、貞泰の代に父とは別に新知150石を拝領した。百兵衛は直泰の新谷分知に伴う家臣となったが、寛永19年(1642)新谷へ移る前に大洲で死去した。そのため「温故集」の「新谷御分の人」には、「神山百兵衛、新谷子孫なし」とある。しかし、その後大洲藩士として、百兵衛家は続く。2代十左衛門光広は、泰興の代に児小姓として召し出され、後に先手組預となる。時期は不明だが数度加増の後300石となった。泰恒の代に隠居したが、そのときに隠居料として50石拝領する。
 つぎの3代実子安太夫は夭折、4代養子左内は、泰恒の代に光広とは別に児小性に取り立てられたが、故障があり御暇となった。そして同じく養子で江戸牢人であった八右衛門重成が5代となり、泰恒の代に、光広の隠居料50石を引いた250石拝領となった。その後、6代八右衛門光尚も、泰恒の代に250石で家督相続し、泰統の代に長柄組預、泰温の代に先手組となる。7代直三郎光雄勝左衛門も同じく、泰温の代に250石で家督相続し、泰武の代に長柄組預かりとなる。
 続く8代助右衛門充政は、安永8年(1779)家督相続し、寛政10年(1798)大目附、同12年長柄組を預けられたが、病気のため文化元年(1804)12月7日隠居した。9代は名前が不詳であるが菊山玄渓の養子が、文化2年4月24日家督相続している。次男百兵衛家は、3代から短期間に交替して相続の危険性が生じたが、江戸浪人など藩外からも養子を入れ順調に家督相続し、ほぼ各代が長柄組、先手組預かりとなっている。
 神山彦太夫の3男覚内は、生国美濃、貞泰の代に父とは別に新知150石を拝領した。2代安左衛門は、彦太夫の5男、覚内の弟であり、つぎの3代弥五八といずれも泰興の代に家督相続した。しかし弥五八が病死し、男子がなく断絶し、安左衛門は、5人扶持となった。その後、4代として才蔵貞幸を河田助右衛門貞高の家から迎えた。才蔵は泰統の部屋住時代からの児小姓であった。藩主より弥五八の名跡を相続するように命があり、中小性となったが、江戸で病死した。覚内家は、再度断絶の危機が起こった。それに関して実家の河田は残念に思ったが、当時中小性の養子は認められていなかった。しかし河田は、事前の策として備後福山藩水野美作守の家来三村右近近澄の二男を、幼少時に神山と名乗らせて養子としていた。
 この水野美作守は、福山藩2代藩主水野勝俊(1598~1655)である。実家の三村右近近澄家は、もと備中三村氏の一族で、三村家親の弟親成を祖とする。三村家は備中国人として毛利元就についたが、三村本家が織田に寝返った際に、親成は毛利家に残った家である。諸国を放浪していた水野勝俊の父勝成を助け、後に息子が水野家に使えた。この近澄は大寄合(1000石)を務めていた親澄と考えられる。
同じように水野家、勝成の家中から取り立てられた家臣として、泰興の代の八田吉左衛門正忠(100石)がいる。また水野家に関して「温故集」に記事がある。元禄11年(1698)水野家が断絶した際、大洲からも町人が福山へ行き武具を数多く調達した。現在城の武庫の番具足、納戸の黄羅紗の羽織もそのときのものである。この黄羅紗の羽織は、歩行小性の番羽織として数多くあると記す。養子などの人的な交流ではないが、藩取りつぶしの際の状況がよくわかる内容である。なお水野家は翌年名跡取り立てにより、減封されたが、能登西谷藩1万石の大名として復活している。覚内家も藩外の水野家家中三村氏から養子を入れ、家督相続している。
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