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「温故集」にみる大洲藩主と家臣20 神山彦太夫と参勤交代 [温故集]


 神山家は、分家をして石高が増加していったが、その歴代の当主を「藩臣家譜」でみていきたい。神山庄兵衛の長男2代彦太夫吉明は、美濃生まれ、寛永12年(1635)没とある。庄兵衛が光泰の所へ逃げ込んだ際に、ともに連れられていた可能性がある。石高は150石を貞泰の代に拝領したとあることから、黒野、米子時代に家督相続している。この彦太夫の次男百兵衛150石、三男角内150石と、それぞれ分家して独立した。のちに断絶したが四男八左衛門も100石拝領していることから、四兄弟計550石であった。
 長男吉明の跡を継いだのは、3代彦太夫吉次であった。吉次は養子であり、森右近大夫忠政の家来鈴木作兵衛の次男であった。生国は伯耆、慶安4年(1651)に82歳で死去しているが、養子になった時期は不明である。森忠政は美濃の出身で、その後金山城主となり、慶長5年(1600)に信濃川中島、8年には美作津山藩主となる。加藤家と森家はおなじ美濃出身で、その後の黒野と金山・川中島、米子と津山、いずれも近隣の藩であり、親類などの関係から養子となったと考えられる。吉次は、泰興の代に家督相続し、養子であったが格別のはからいで250石となった。泰恒が初入した際に御用人となり、その後50石加増され300石となった。泰恒の初入りは、藩主就任前の部屋住み時代の延宝元年(1673)4月である。隠居後も15人扶持を拝領した。
 この彦太夫吉次と思われる人物が、「温故集」に登場する。泰興が参勤交代で、ある宿の本陣に泊まろうとしたが、前夜に宿泊した別の大名がまだ出発していなかった。そこで使者として派遣されたのが、神山彦太夫と菅平太夫であった。泰興は、彦太夫達へ、早々に出立して欲しい、それができないなら相宿するとその大名へ伝えるよう指示した。両人はいずれも「尻からげにて槍を抜身にして自ら提」げて、本陣の玄関に赴いた。すると大名は先ほど出立しており、裏道を通り川の途中で泰興一行と出会った。そのとき家来は、みな槍を体に引きつけて、勢いよく供をしていた。なかでも林彌左衛門は、鉢巻をして槍を持ち、かなり威勢がいいので、泰興はそれをみて「彌左衛門は弁慶が瘤ともいはるべきもの」と賞めたとある。いずれも藩士達の勢い盛んな様子に、別の大名家は恐れていたという、大洲藩士の武勇を誇る内容といえる。
 彦太夫吉次の跡を継いだのは、4代勘兵衛吉房で、江戸留守居、御先手組預かりを勤めた。勘兵衛は叔父八左衛門の養子であったが、彦太夫家をつぐ者がいなくなったため、実家に戻り家督相続した。つぎの5代彦太夫春純は養子であり、泰恒の代に200石で相続し、普請方となった。その後、泰温の代に50石加増され、御先手組預かりとなった。続けて6代武太夫吉貞は普請奉行、7代梅之進吉孝は泰衑の代に家督相続したが、死去したため、春純五男の8代彦太夫吉純が150石で家督相続した。彦太夫吉純は 御手廻勤、作事奉行、普請奉行、長柄組預かり、御先手物頭格となった。その子9代登平吉辰は享和元年に家督相続し、翌年から御納戸勤となった。最初の養子であった3代彦太夫吉次の際には100石増加したが、8代彦太夫吉純の際には100石減少した。

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