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「温故集」にみる大洲藩主と家臣24 弟相続と6代神山政孝 [温故集]

 神山市郎兵衛の長男兵左衛門正英は、泰興の代に別家を立てた。そして弟の文右衛門が市郎右衛門家を継ぐ。3代文右衛門は、泰恒の代にまず近習となり、元服後4人扶持15石、その後父市郎兵衛の家督を相続し100石となった。しかしまもなく死去し、吉田藩の飯淵弥太夫の子を養子とし4代藤兵衛とした。「大洲秘録」には宇和島浪士とある。これが先にみた2代市郎兵衛の隠居扶持拝領の理由であろう。藤兵衛は元禄10年(1697)に家督相続し、15人扶持となる。
 8年後の宝永2年(1705)、蓑島勘兵衛正経の末子が養子となり、5代市郎兵衛政直として家督相続し10人扶持となった。泰統の代に、新知の話があったが藩主の不幸のため中止となり、つぎの泰温の代、享保14年(1729)新知100石を拝領した。その後江戸屋敷の元〆役、郡奉行となり元文4年(1739)に5人扶持が加増された。『大洲秘録』に元文4年から郡奉行とあることから、100石に加えて5人扶持であり、役高的な意味合いがあると思われる。寛延元年(1748)郡奉行を辞退したが、同3年(1750)には再び郡奉行となる。宝暦2年(1752)に息子6代市郎兵衛政孝に家督相続していることから、約50年間加藤家に仕えたことになる。
 「豫州大洲領御替地古今集」(『伊予市誌』)によると、上吾川村の伊豫岡八幡宮に、元文5年(1740)小太鼓が奉納された。その箱の内に奉納者名があり「神山市良兵衛正直」の名がみえる。この小太鼓は、9月神事の藩主の祈祷時のみ使用していたが、大破して使えないので、神殿においているとある。
 6代市郎兵衛は、本シリーズ5「温故集の成立と野々村光周、神山政孝」で詳しくみた「温故集」の跋を記した人物である。その際にも詳述したが一部再録する。市郎兵衛は、寛延元年(1748)部屋住時代に御手廻を命じられ、4人分高15石を拝領した。宝暦2年家督相続後も、引き続き御手廻勤、宝暦11年には江戸元〆、明和5年(1768)郡奉行町奉行兼帯となる。ほぼ5代市郎兵衛と同じ役職である。安永8年(1779)には病気のため役儀御免を願い出たが、保養してそのまま勤めるようにとあり5人扶持を加増され、天明3年には替地での仕事が認められ30石加恩された。同5年町奉行は御免となったが、長柄組御預、郡奉行はそのまま、天明7年(1787)長柄組を御免の後、先手組御預となる。寛政元年(1789)これも御免となるが、普請方支配右組御預となり、同3年、息子の7代定馬政寛に家督を譲る。
 天明3年の加恩は、安永9年麻生水論に関するものではないかと推定できる。この水論では、伊予郡南神崎村の受け取りに際して、5月18日大洲・松山両藩役人が宮ノ下村庄屋宅に会合したが、そこに郡奉行神山市郎兵衛の名がみえる。
 6代市郎兵衛は、「豫州大洲領御替地古今集」によると、下吾川村庄屋日野儀右衛門の系図の話にも登場する。日野家の先祖は、鎌倉時代末期元弘の頃に公家の日野資朝が土佐へ左遷された際の末裔と聞いている。弟日野万五郎が明和8年に上京して、偶然に日野大納言資技の家臣が万五郎の荷札を見て、資技に聞くといかにも土佐との縁があるとのことであった。そして懐かしいので系図にせよということで、「鶴の子のまたやしゃら子の末までも、ふるき例を我世とや見舞」との和歌を拝領し帰国した。これを神山市郎兵衛が尋ね見て後、系図に仕立てるよう巻物を拝領したとある。この日野は安永9年に庄屋になっており、6代市郎兵衛の話である。替地の郡奉行として様々なかたちで名前が残っている。
 その後7代定馬政寛は父の130石10人扶持を受け継いだが、寛政12年には、8代神山良助政人へ家督相続している。
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