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「温故集」にみる大洲藩主と家臣26 加藤泰興の鷹狩と坪田善左衛門 [温故集]

 「温故集」には、藩主と藩士のつながりを示す話が多いが、今回は鷹狩りという場でおこった加藤泰興と坪田善左衛門の事例をみていきたい。
 加藤泰興の時代(藩主在任1623~1674)、極寒の頃、泰興は御鷹野に田ノ口へ行った。その際に、泰興の御鷹の置縄が池の柳に引っかかった。それに気づいた家臣の坪田善左衛門、手廻として御刀持の御供をしていたが、御刀を別の供の者に預けて、自分は着の身着のままで池へ飛び込んだ。引っかかった置縄をはずして、御鷹を居上げた(すえあげ、鷹をとまらせる)。しばらくして泰興は床机に座って茶を飲んだ。泰興は御所柿が好物で、野外に出る際の茶弁当にも御所柿や菓子を持参していた。その御所柿を一つ取り出し、善左衛門を呼び半分与え、早く帰って休むように指示した。この時の善左衛門は極寒の際に着の身着のままで水に入ったので、つららのようになっていたという。御所柿半分の拝領物は小さく軽いことだが、善左衛門は後々まで語っていたので、大変ありがたく思っていたのであろう、とある。
 当時の大名が将軍から許可を受けていた鷹狩りを、2代藩主泰興が田ノ口の池付近で行った際の話しである。ここでは鷹狩を御鷹野と表している。池とあることから鷹を使って池に休む水鳥・渡り鳥を獲る狩と思われる。御鷹の置縄とは、「招縄(おきなわ)」とも記し、大鷹を慣らすためにその脚につないでおく縄であった(『日本国語大辞典』)。近くの柳であれば池に入る必要はないので、鷹を放った後に引っかかった可能性がある。獲物も必死に逃げるので、鷹狩りはすべて成功するとは限らないという。
 御所柿は、大和柿・紅柿ともいい、甘柿で果実はやや扁平な球形で種子はほとんどなく、奈良県御所市原産といわれ、近畿や岐阜・山梨県に多い。語源としては、御所・ごせが原産ということと、大御所となった徳川家康が好んだからなどがある(『日本国語大辞典』)。美濃出身の加藤家ならではの食べ物でもある。
 「藩臣家譜」によると、坪田善左衛門は、知行200石、正春といい、生国は近江矢橋とある。父島田右京は関長門守(一政)に仕え、その後家名を変えた。泰興の代に父が召し出されたが病身のため断わるも、御合力扶持を拝領し大洲へ従った。父の死後、善左衛門は若年のため児小性、続いて歩行小性となった。その後新知100石拝領し御台所奉行、50石加恩され作事奉行、また50石加恩され長浜御船奉行となり隠居した。
 おそらく関一政は伯耆黒坂藩主であるため、同時期に隣領米子藩主であった加藤家との交流があった。元和4年(1618)に関家は改易されたため、坪田家は加藤家に仕えたと思われる。この「温故集」の鷹狩りは、児小性、歩行小性を勤めていた際の話かもしれない。
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