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「温故集」にみる大洲藩主と家臣12 旧臣林家の知行減少  [温故集]

 これまで「温故集」の概要、背景について考察したが、これ以降本文に記される各藩士家の伝承について分析したい。まず最初に、知行が減少した事例として、光泰以来の旧臣林家をとりあげる。巻一の最初に、林家の先祖に関する話がつぎのように記されている。

林市郎左衛門祖孫太夫といへるは今泉村の大工也、作内様御出入せし故公仰けるは、我もし一城の主とならば汝も知行望にやと仰有しに孫太夫答けるは、何として城主と成給はんや若城主となり給はヾ七十石ばかりも給へかしと申けるとぞ、之に依て旧臣ながら林の家今に小禄にて百石に足り申ざる也

 林家の祖孫太夫が大工をしていた今泉村は、美濃国厚見郡に属し、現在の岐阜市中心部にあたる。『北藤録』によると、光泰(作内)の祖父景秀の代に、安房国から今泉村橋詰庄に移り、父景泰の代に70貫を領する在地土豪であったと考えられる。孫太夫は、光泰と同郷であり、加藤家最古参の旧臣であるが、禄高が100石に満たないとある。その理由として、光泰が出入りしていた孫太夫に、自分が一城の主となったら知行はいくら欲しいかと聞いたところ、孫太夫はあまり信じていないようで、70石もあれば十分と答えたことが要因だとしている。
 この「温故集」が記録された時期、林家は林市郎左衛門山綿が享保17年(1732)80石の家督を相続し、明和元年(1764)に隠居しており、実際に「小禄にて百石に足り申ざる」状況であった。しかし「藩臣家譜」によると、林家はもとは300石の禄高であった。「藩臣家譜」には孫太夫の一代前、林與左衛門山茂の記述が最初で、美濃林屋敷生まれ、光泰と同じ橋詰に住居し知行高は不詳であるが、「曹渓院様江御出入仕候処、永録年中ヨリ御奉行仕候由伝承」と、「温故集」と同様の出仕状況が記される。孫太夫山利は、知行300石、光泰に奉公し各戦の陣、朝鮮出兵にも御供をした伝承があり、後に貞泰に仕え黒野に移ったとある。孫太夫が死去した後、子の又右衛門が幼年だったため、父与左衛門山茂が慶長12年(1607)再び家督を相続し、米子・大洲へと従った。しかしこの時、知行が半減し150石となった。子の又右衛門山統は、泰興の代に家督相続したが、知行はまたも減少し65石となった。そして寛文2年(1662)に隠居した。 その子又右衛門山竹の代には、故障があり暇(解雇)となったが、その後藩に帰参したとある。その子の惣右衛門山朗は、泰恒の代に家督相続し、泰統の代に知行が15石増加した。また又右衛門の三男西野惣内、四男小島平兵衛が別家を立て、旗本となった加藤泰堅に仕えることとなった。その後、先述した市郎左衛門山綿が継ぎ、次の代の又右衛門重穏は、明和元年(1764)家督相続後、天明7年(1787)旧臣という「家筋之義被思召」により、20石加増され100石になり、寛政11年に隠居した。このまま知行が復活するかと思われたが、その子又七郎山成が寛政11年(1799)に家督相続後、知行が召し上げられ10人扶持となった。そして名字も斉藤と改めている。最古参の旧臣といえども、幼年や故障があり、徐々に知行が減少し、順調に知行を維持できない場合もあった。
 しかし又右衛門の息子で別家を立てた西野惣内は、加藤泰堅に仕えて後、泰堅の改易のため本藩の中小性となり、その後大坂留守居役15人扶持の知行となった。養子の兵右衛門臣恭は、享保20年(1735)家督相続し、本姓の林と改名、寛保2年(1742)江戸元〆役、江戸定府となり、新知100石を知行した。宝暦元年(1751)郡奉行、役中5人扶持増加し、再度江戸元〆役定府となり、合計100石5人扶持と、林本家の石高をこえた。同じ又右衛門の息子、小島平兵衛家は18人扶持と知行は増加していないが、西野と同じく、加藤泰堅に仕えて後、泰衑の次男で下野喜連川藩の7代藩主となった喜連川恵氏に仕えるなど、西野、小島両家ともに旗本になった泰堅家の経験を活かし、大坂、江戸などで、藩の外交に関する職に就いたと思われる。そのため実績に合わせて、知行も林本家をこえたと考えられる。
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