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「温故集」にみる大洲藩主と家臣13 稲葉家と朝鮮出兵 [温故集]

 つぎに林家と同じく光泰以来の旧臣で知行が減少した事例として、稲葉家をとりあげる。「温故集」には稲葉家が登場する記事は4件あり、内容は、初代長右衛門の朝鮮出兵、関ヶ原の戦に関するものが3件と多数を占める。このうち朝鮮出兵の記事は、光泰が出兵する経緯とその御供、および朝鮮滞在の光泰から稲葉長右衛門宛の書状写の2件である。 「温故集」によると、光泰の出兵の経緯はつぎの通りである。光泰は、名護屋に在陣する秀吉のところへ、僅かの供で陣中見舞いに訪れた。そこへ朝鮮から軍勢の応援要請があり、秀吉は光泰に対して領国甲斐へ帰国後、家老に百騎つけて出陣させるよう命じた。ところが光泰は、自らが雑兵千人ほどをつれてすぐに出陣すると申し出た。その際、朝鮮国は寒い国なので、引き連れていくのは15~50歳までとし、老人は免除した。その供は、大橋清兵衛他7名の名前が伝わっているが、そのなかに稲葉長右衛門の息子八兵衛が含まれていた。
 この出兵の経緯について、『北藤録』巻8では、文禄元年(1592)6月に秀吉の命で加勢の軍として、増田長盛、石田三成、大谷吉継、前野長康とともに朝鮮へ派遣されたとある。秀吉への陣中見舞いの話はないが、出船前に家康と別れを惜しんだと記している。また引き連れた兵は千名と同じであるが、家老につける兵数は5、60騎と相違している。加藤家の兵員の実態は、出兵1年後の資料であるが、文禄2年5月20日の秀吉朱印状(『島津家文書』2、955)によると、光泰は釜山浦の東莱城に前野長康とともに在城し、人数1097人とあり、ほぼ「温故集」『北藤録』の兵数と一致する。
 つぎに稲葉長右衛門宛の光泰の書状の内容を紹介する。この書状では、はじめに光泰が甲斐から書状と帷子が到着したことを喜んでいる様子が記される。そして光泰が朝鮮の都漢城を4月19日に出て、5月12日に釜山へ到着、家中は無事であることを報告している。供につれていた長右衛門の息子八兵衛も健やかなので安心するようにとある。つづけて明国の「御詫言勅使」が名護屋へ向かったが、内容によっては講和とならず、帰国できない可能性があると記す。最後に甲斐国が平穏であることを慶び、朝鮮国の情勢は、光泰の弟平兵衛光政に知らせたので聞いて欲しいとある。この書状は、5月25日付であるが、明国の使者が名護屋へ向かったとの記述から、文禄2年5月15日の明との講和交渉直後に記されたと推測できる。また『北藤録』や「大洲加藤文書」にも収録されており、近世のある時期に稲葉家より加藤家へ提出された可能性もある。
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