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「温故集」にみる大洲藩主と家臣14 稲葉家と関ヶ原戦 [温故集]

 その後、稲葉長右衛門は慶長5年(1600)関ヶ原の戦の記事に再び登場する。貞泰は、関ヶ原の戦において、最初石田方として犬山城へ入るが、以前から家康と通じ、竹中重門と城を出た。9月15日合戦当日には、細川忠興、稲葉貞通とともに島津義弘と戦ったと『北藤録』に記される。長右衛門は、この時期、伏見屋敷の留守を預かり、貞泰夫人を守護していた。その間、石田方は諸大名の妻子を人質として城へ迎えるとの風聞があった。夫人はもし人質の催促があれば、自分にすぐに知らせるように命じ、そうなれば自分は自害すると伝えたとある。この「温故集」と同じ内容が、『北藤録』巻9につぎのように記されている。

又、貞泰ノ室<法眼院>ハ、稲葉長右衛門<当時稲葉八左衛門、豊矩先祖>留守ヲ預リ在伏見タリシカ、世上物騒敷、諸大名ノ妻子ヲ石田方へ迎取由風説頻リニテ甚難儀ニ及フ、内室此事ヲ聴テ、若人質催促ニ及ハ早ク告知スヘシ、自害スヘキノ由ヲ長右衛門ニ命シケレトモ、大坂ニ於テ細川越中守忠興ノ室生害アリシ故、其後ハ催促ノ沙汰モナク、其難ヲ遁シトナリ。

*<>内は割書

 『北藤録』には、この話の結末として、後半部分に大坂の細川忠興妻の自害事件が起こり、人質の催促は中止となり難を逃れたと記す。忠興妻の自害とは、細川玉(ガラシャ)が石田方の人質要求を拒否し、慶長5年7月17日死去した事件として有名である。
 「温故集」には、この貞泰夫人の人質記事に続けて、長右衛門の孫にあたる九兵衛、幼名金蔵の知行について話が進む。それによると稲葉家は、貞泰の黒野時代以来、代々500石の知行であったが、金蔵が幼年であったため、母が「幼年の者に大禄恐多候、二百石は幼年の内は御上へ御預申すべき」と願い出たとある。そのため稲葉家は現在でも200石であり、現在の稲葉八郎左衛門豊矩の先祖の話と結んでいる。林家と同じく幼年相続のため、知行が減少している事例である。
 「藩臣家譜」には、稲葉九兵衛豊長は300石であり、その理由として「九兵衛幼年ニ而御番等茂得相勤不申候」とある。稲葉家は、その後も奉行や中老職を勤め、知行は代々300石であるが、「温故集」の記述は200石と相違している。豊長の曾孫にあたる稲葉八左衛門豊矩が、7代藩主泰武の代(藩主在任1762~68)に50石加増され350石となっているが、文化、天保期には200~250石となっている。
 林、稲葉両家いずれも、甲斐24万石から黒野4万石への転封の際の急激な知行減少も反映されているのではないだろうか。
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