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「温故集」にみる大洲藩主と家臣15 寺島家と近江横山城の戦い [温故集]

 加藤家家臣の知行減少の理由と考えられる、光泰の死去による甲斐24万石から黒野4万石への転封について、はっきりと記した家がある。林家と同じく加藤家の最古参の家臣で、知行が減少した寺島家である。寺島家は「藩臣家譜」によると、光泰の甲斐時代には2000石、与力10人足軽20人の御先手であったが、貞泰の黒野時代には500石になったと具体的である。この寺島家について、「温故集」では、光泰が今泉村橋詰庄から出た際の御供3人の内の1人が先祖の寺島戸一郎であったとのみ記され、それ以外の事蹟はない。しかし「藩臣家譜」『北藤録』をみると、光泰が参加した初期の合戦である近江横山城の戦いにおいて重要な働きをしていることがわかる。
 寺島家の初代とされる寺島十左衛門勝政は、「藩臣家譜」には生国を美濃国寺島村とする。この場所は、光泰の出身である今泉、橋詰に近い寺島で、現在のJR岐阜駅の北、岐阜市寺島町付近と考えられる。ここでも「温故集」と同じく、「曹渓院様濃州橋詰ヨリ初而御出之時供奉仕」と、光泰の最初の家臣であることを強調している。この後に、光泰の合戦における勝政の功績をつぎのように記す。光泰が戦場で戦った際、膝口に傷を受け、歩けなくなった。そのとき勝政は早々に駆けつけ、光泰に肩を貸して退いたというものである。しかし救出中に敵に旗指物を奪われてしまったが、すぐに奪い返しその敵を射て討ちとったする。主人光泰の救出という危険な状況のなか、大事な家の目印である旗指物を取り返したと、模範的な武士として、二つの功績が含まれている。その結果、百石を加増され、光泰が着ていた具足、長刀を拝領し代々所持してきたが、具足は火事で焼失したとある。
 この光泰の合戦については『北藤録』に詳しく、元亀2年(1571)織田信長と浅井長政・朝倉義景間の戦いであった。前年姉川の合戦で信長は徳川家康とともに、浅井・朝倉に勝利した。この時、小谷城の南にある横山城(現長浜市)の城番となったのが木下秀吉であり、その家臣であった光泰もこの城に入ったと考えられる。『北藤録』によると、この年9月横山城をめぐって織田と浅井の合戦が起こり、光泰と勝政が登場する。城番であった秀吉が岐阜へ行った留守を狙い、浅井方の浅井七郎、赤尾新兵衛が攻撃を仕掛けた。横山城留守の竹中重治は城にこもり防御したが、光泰のみ出城し、槍にて野一色助七と太刀討ちした。その際光泰は左の膝口に疵を受けて動けなくなり、そこへ寺島戸市郎勝政が肩を貸して救助したというものである。
 注釈として、寺島と竹内藤助は橋詰時代から供をし、現在竹内家は断絶したが、寺島家は、寺島溝次郎勝宣の先祖と記している。また別の説として、光泰を救助したのは大橋十蔵であり、十蔵は敵に取り囲まれて死去したとある。光泰は恩賞として、北郡の内磯野村知行700貫、与力10余人を与えられた。この与力のなかに頭の大橋長兵衛がおり、この時から長兵衛を家老としたとある。大橋十蔵は、その後、近世を通じて大洲藩の家老となる大橋家の関係者か、大橋家の功績として作り上げられた人物の可能性もある。光泰最初の合戦に対して、様々な話が語り継がれている。
岐阜信長.jpg
JR岐阜駅前の金の信長像
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