SSブログ

「温故集」にみる大洲藩主と家臣17 加藤家歴代の事蹟と「加藤家年譜」 [温故集]

 近江横山城の戦いに関して、加藤家歴代の事蹟を記した「加藤家年譜」を追加しておきたい。内容は、『北藤録』「加藤光泰貞泰軍功記」とほぼ同じである。元亀2年(1571)9月秀吉は竹中重治を横山城留守居として岐阜へ行き、その際、浅井方が攻撃を仕掛けた。重治は城門を閉ざしたが、光泰は野一色助七と闘い傷を負った。その危急を寺島戸一郎勝政が救い、具足と長刀を拝領した。秀吉は光泰へ恩賞として、北郡の内磯野村知行700貫、与力10人を与えた。与力の内、家臣として続く6家の名前を記している。藩内、加藤家の歴史書であるため、家臣寺島勝政が登場している。そしてこの記事は、「加藤家年譜」において、具体的な家臣の功績が記された最初のものであった。
 加藤家の事蹟に関しては、これまでも参考にしてきた『北藤録』(宝暦9年完成)がある。この二つの史料は、期間、記述方法が相違している。『北藤録』は、期間を光泰より以前の歴代から6代泰衑までとし、記述を長文の物語形式でまとめ、史料本文を引用する方法である。一方で「加藤家年譜」は、期間は、天文6年(1537)の光泰誕生から、最後の藩主泰秋の明治2年(1869)12月まで記される。記述は、一部光泰、貞泰期には長文があるが、その他は箇条書きが多い。
 「加藤家年譜」は、桜井久次郎『大洲新谷藩政編年史』のなかで1348回引用され、第2位の『徳川実紀』270回と比較しても、群を抜いて多い。史料の全引用数6249回の内、5分1以上である22%を占める。また引用年は、加藤家の大洲入国元和3年(1617)から明治2年(1869)まで、その内225年を占める。年譜という史料の性格上、当然のことといえるが、『大洲新谷藩政編年史』は、「加藤家年譜」を中心にまとめられたといってもよい。
 この「加藤家年譜」という名前は、桜井久次郎が命名した可能性がある。桜井氏の写本である「加藤家年譜 一」(大洲市立図書館所蔵)をみると、「加藤家譜」(伊予史談会所蔵)を昭和40年(1965)に写している。「加藤家譜」は、書写した西園寺源透の叙によると、原本は加藤家所蔵の史料であった。この史料は、東京の加藤邸にあり、大正12年(1923)の関東大震災の際、家従力石安夫氏が救出した。昭和6年(1931)5月、力石氏が大洲帰還の際に、西園寺氏が借用謄写したとある。原本は、竪1尺1分、横7寸9分の大本、上中下3冊であった。内容は、6段にわかれ、年号干支、藩主の事蹟、一族や親類、家老、制度、家中や雑事に区分されていた。これを西園寺氏が、年月日順に変更し、「加藤家譜」と命名したとある。この伊予史談会の「加藤家譜」書写に関しては、桜井久次郎「加藤家譜の研究」(『伊予史談』226.227、1977年)に詳しい。
 そして桜井氏は、西園寺氏の写本の題名に「年」という字を追加し、加藤家本との校正、研究内容を踏まえた考証と考えられる書き込みを各所に施している。西園寺本を書写しつつ、氏の研究してきた内容から校訂していったことがわかる原稿である。
コメント(0)  トラックバック(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。