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「温故集」にみる大洲藩主と家臣18 知行減少と「格別之家筋」 [温故集]

 「藩臣家譜」によると、寺島勝政は、その後朝鮮出兵の際光泰に従い、その他数々の戦功があったが不分明なので略すとある。先述したが光泰の甲斐時代には2000石、与力10人足軽20人の御先手であったが、貞泰の黒野時代には500石に減少したと記す。勝政は、戸市、藤蔵、晩年に十左衛門と何度か改名しており、『北藤録』によると、慶長19年(1614)大坂の陣の左備に、550石寺島藤蔵とある。貞泰への世代交代の後も、重要な家臣として位置づけられていた。
 その後、長男藤蔵に300石、二男助十郎に200石分知され、助十郎は新谷藩に仕えることとなる。元和9年(1623)直泰への1万石分知の際、直泰付きとなった藩士は、「佐伯本加藤家御伝記」によると、400石から50石まで27人の名前がある。後の中江藤樹(中江与右衛門100石)も含まれているが、助十郎と同じ200石は9人いる。新谷寺島家は、4代寺島武右衛門が御用人となり、150石と減少している(「大洲秘録」)。
 大洲寺島家は、3代半右衛門が、寛永17年(1640)高松在番、大目付を、4代利兵衛が、明暦3年(1657)丸亀在番を勤めるが、この時200石となった。知行減少の理由は不明だが、利兵衛は、平野勘右衛門の5男で養子であったことが、要因かもしれない。5代彦右衛門は、江戸聞番、江戸留守居役を勤めたが、6代利兵衛150石、7代藤蔵の代に100石に減少する。いずれも山田三右衛門、清左衛門親子の息子が養子となり、藤蔵は「幼年ニ付家督拾五人扶持」とあることから、やはり家督相続の際の幼年養子などが理由となり、知行が減らされた。藤蔵は、加藤泰温の代に新知100石を拝領し、近習、納戸役を勤める。8代利兵衛も林三郎右衛門二男が養子となり、同じく「幼年ニ付家督拾五人扶持」、加藤泰候の代、安永5年(1776)手廻勤、9年「家筋被思召新知百石」と、先祖の家筋から新知100石を拝領した。
 9代戸一郎も徳永与市右衛門二男が養子となったが、加藤泰済の代の寛政6年(1794)家督相続し、12年~文化3年まで江戸勤、その後手廻、文化4年、文政4年(1821)に町奉行を勤める。そして文化5年6月には「格別之家筋」のため50石の加増となった。同年5月17日に泰済は大洲へ帰国しているので、その際の加増であった。その後、おそらく10代と考えられる半右衛門は、天保3年(1832)郡奉行となる。
 寺島家は、光泰が今泉村橋詰庄から出た際の御供3人の内の1人で最古参の家臣といえる。大洲入封当初500石であったが、新谷分知の際に分家し300石、また養子が続き幼年を理由に知行が100石まで減少した。減少理由は、その他の家臣と同じであるが、一方で光泰時代の横山城他の功績から、「格別之家筋」が重視され知行が増加した。「温故集」では、特別な事蹟は記されていないが、江戸留守居、町奉行、郡奉行等、中級藩士として家が継承された。
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