SSブログ

「温故集」にみる大洲藩主と家臣19 神山家の展開、篠田庄兵衛と光泰 [温故集]

 これまでみてきた加藤家家臣は、加藤家の所領石高の減少や世代交代に伴い、知行減少した家であった。これとは逆に分家により展開し、知行が増加した神山家を紹介する。神山家は、林家や寺島家と同じく加藤家の最古参の家臣である。『大洲秘録』が編纂された18世紀中期、神山家は7家存在した。光泰の橋詰時代に仕官した篠田庄兵衛系が3家、貞泰の黒野時代に仕官した市郎右衛門系が3家、泰興の時代に仕官した長左衛門系1家である。これらの家は同姓であるが、『大洲秘録』では別系図で記しているので、親族であったかは不明である。本シリーズ5「温故集の成立と野々村光周、神山政孝」で、「温故集」の跋を記した神山政孝は市郎右衛門家である。
 篠田庄兵衛系は、庄兵衛の長男家武太夫250石、馬廻、次男家直三郎250石馬廻、蔦、三男家九郎右衛門100石、大坂勤とあり、菩提寺は長男・次男が龍護山、三男が 徳正寺と違うが、家紋はすべて蔦である。3家の石高を合計すると600石となる。
 市郎右衛門系は、市郎右衛門の長男家兵左衛門200石、用人、兵左衛門の弟右七15人扶持、近習、いずれも菩提寺大蓮寺、家紋は菱に右一つ巴、次男家市郎兵衛100石5人扶持、真宗光源寺、家紋左巴と違う。3家の石高を合計すると300石20人扶持となる。
 長左衛門家は100石、納戸、菩提寺寿永寺、家紋は丸に井桁である。これら神山家7家を総計すると1000石20人扶持となり、加藤家一族、家老大橋家以外では石高の多い家である。
 まず篠田庄兵衛家についてみていきたい。この庄兵衛は「温故集」にも「神山武太夫が祖、本は篠田氏にて庄兵衛と称す」とはじまる記事がある。庄兵衛は、事情により美濃で刃傷沙汰を起こし、妻をつれて直接光泰の所へ逃げてきた。もともと光泰の筋目の家でありかくまわれた。そして元々住んでいた所が神山という名であったので、それを氏として、家臣となったとある。墓は法華寺の頂、知らぬ所にありとまとめる。篠田庄兵衛は、もともと光泰と縁故があったが、殺人のため光泰のところへ逃げ姓を変えて家臣となった。 この一連の内容は「藩臣家譜」にも詳しいが、「温故集」に記されていない内容をまとめる。当時、庄兵衛は牢人であり、それは光泰が今泉村橋詰にいた時期のことであった。妻ではなく子供を引き連れて光泰の所へ逃げ込み、名前とともに紋を変えたとある。この時に光泰に「御カコイ置」かれたか、家来になったかは不詳で、充行なども伝わっていない。庄兵衛は子孫に対してこの光泰の厚恩を忘れてはならないと遺言し、代々申し伝えている。しかし書付はなく、すべて口伝であると締めくくっている。他の史料では、庄兵衛は吉正といい、武太夫の息子、元和5年(1619)2月19日に没しているので、大洲以前の貞泰の米子時代である。
コメント(0)  トラックバック(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。