SSブログ
加藤光泰 ブログトップ

甲斐善光寺と加藤光泰墓所 [加藤光泰]

光泰墓所①.jpg 
 昨年11月、甲斐善光寺にある加藤光泰墓所を初めて訪ねた。光泰の墓所は善光寺金堂の裏側にあり、甲府市の史跡に指定されている。
 加藤光泰の墓所は、高い基壇が築かれ墓の周囲には石柵、墓所前には石燈籠3基づつが左右に配置され大名家の墓所らしい風格のある場所であった。
 加藤光泰の墓碑については藤さんの「甲斐善光寺と香炉 加藤光泰の墓」で紹介のとおり、元文4年(1739)11月、大洲藩5代藩主加藤泰温が、甲斐善光寺の光泰の墓地を改修した。これは寛保2年(1742)の光泰150年忌に向けて行われたもので、「五輪ノ台ノ石ヲ改メテ作ル」とあることから、この時五輪塔の墓となった。その石には次のように記されていた。
光泰墓所②.jpg

【墓碑表面】
曹渓院殿剛園勝公大居士
 文禄二年癸巳八月廿九日

【墓碑左面】
公為甲斐国主也 朝鮮
之役将兵在釜山浦以
病卒 實文禄二年癸巳
八月廿九日也  群臣奉
枢(柩)歸甲斐国葬善光寺
境内
公諱光泰 封遠江守佛
諡曹渓院剛園勝公距

【墓碑右面】
今四百十七年 嵤域頗
損壊及差有司命修之
 元文四年巳未十二月廿九日
  六代孫予州大洲城主
   従五位下遠江守藤原朝臣泰古謹誌

 また、この光泰の墓所は、天明4年(1784)9代藩主加藤泰候の代に修復され石燈籠が奉献されているが、現在もこの天明4年の石燈籠が光泰の墓碑の両脇に残されている。
 さらに、墓碑前には「加藤駿河守藤原泰朝」と刻まれた御水盤があり、銘文から加藤泰朝が奉献したものであることがわかる。加藤泰朝は、加藤光泰の子で分家し旗本となった加藤平内家6代当主である。泰朝が、駿河守に叙任するのは天明元年(1781)であることから、この水盤は天明4年の修復の際に奉献されたものと考えられる。
 こうした光泰の墓所の前には、江戸時代に奉献された石燈籠のほかに、明治25年(1892)8月に旧大洲藩13代藩主加藤泰秋、旧大洲藩士で喜多郡長を務めた陶不窳次郎(明治25年当時は山梨県警部長)、大洲藩士が奉献した燈籠が残されている。明治25年は加藤光泰の300回忌にあたり、これに伴って石燈籠の奉献が行われたものであると考えられる。中でも加藤泰秋と藩士奉献の燈籠の土台には、藩士の名前が列記されており、明治以後も藩祖光泰を顕彰しようとする動向が残っていたことが伺われる。

posted by 加 at コメント(0)  トラックバック(0) 

加藤光泰「神」になる [加藤光泰]

三祖社.jpg 
                         〈大洲八幡神社内三祖社〉
 文化11(1814)年9月15日、大洲10代藩主加藤泰済は、藩祖加藤光泰の神霊を八幡神社内へと勧請した。勧請された光泰の神霊は、社号を三祖社(ミソヤノヤシロ)、神号を顕国玉神(ウツシクニタマノカミ)と称した。さらに、文政3(1820)年9月29日、大洲藩では、京都吉田家に依頼して文化11年に勧請された光泰の神霊を再度八幡神社へ勧請した。
 このような2度にわたる藩祖光泰の神霊の勧請について、『文竜公行実』には次のように記されている。
  一御先祖様ノ事御尊崇厚成シ玉フ、其事業ニ就テ奉□バ大洲八幡宮内へ御祖神ヲ勧請シ玉ヒ、
    藤原家ノ祖ナルカ故ニ春日明神ニ鎌足公夫ニ光泰公ヲ御同殿ニ奉ラル成、京吉田家へ御頼ニ
    テ御勧請調フ、御先祖様ヲ御神号光烈明神ト称故ニ三祖社ト奉号御造営新タニ被仰付御祀尊
    ノ事ハ社人執行之四時怠リ無ク御在参ノ間月々朔日ニハ八幡宮ニテ執行ナシ共、御身前ノ事
    ニ付テハ御祈祷ハ三祖神社ニ於テナスベシトノ思召也、御辻宮ノ節ハ深狭ナリシカ公自ラ御社
    頭へ詰サセラル御譜代ノ家臣へ供奉命シ玉フ
 これによれば、八幡神社内へ勧請した藩祖光泰の神霊を藤原家の遠祖藤原鎌足を祀った春日大明神と相殿することとし、新たに造営する社殿において祭祀することとしている。
 この春日大明神と相殿にしたのは、加藤家が遠祖を藤原鎌足としていること、そして藤原氏の氏神が春日大明神であるという関係によるものであった。このような藩祖と藤原家の遠祖を一緒に、同じ社殿において祀ることは、加藤家が藤原氏一族に連なる正当な家系であることを表明するとともに、藩祖の権威を具現化して強化しようと図ったものと考えられる。
 また、2度の勧請の実施は、春日大明神と当初勧請した光泰の神号である顕国玉神の神号が同等でないため、加藤家の藩祖をそのまま社殿に相殿すると、藩祖の権威が遠祖である藤原家より低くとられる可能性があった。そのため、大洲藩では藩領内において藩祖の権威を春日大明神と同等もしくは、高く位置づけるためには、同等の「大明神」神号を得る必要があった。
 このように、大洲藩における藩祖光泰の神霊の勧請は、文化11年に続いて、文政3年に行われ、八幡神社敷地内に造営された社殿に春日大明神と相殿されるに至った。

posted by 加 at コメント(2)  トラックバック(0) 

甲斐善光寺と香炉 加藤光泰の墓 [加藤光泰]

 加藤光泰は、文禄2年(1593)8月29日朝鮮出兵中、釜山浦において57歳で死亡した。朝鮮半島の西生浦で発病したとされる。西生浦は蔚山の南に位置し、当時加藤清正の築いた西生浦城があった。『北藤録』巻之8には次のように記されていた。

朝鮮ト和談整ヒテ諸将帰朝ノ節、西生浦トイフ所ニテ、石田等光泰ト和睦セントテ、八月廿六日
ニ宮部兵部少輔長房カ陣所ニテ酒宴ヲ催ス、其夜帰宿ノ後俄ニ病ヲ発シ、血ヲ嘔テ遂ニ卒ス

 朝鮮との講和が進み、帰国の際、石田三成が光泰との和睦として酒宴を開いた。光泰は宴から帰った後に病を発し、血を吐いて死亡したとある。また『北藤録』には「一書ニ曰」として石田三成によって鮒の吸い物に鴆毒(ちんどく)を盛られ毒殺されたという説も引用している。鴆毒とは、中国南方に住む想像上の鳥の羽にある猛毒で、羽をひたした酒はよく人を殺すとあり、また猛毒の総称でもあった。光泰に死後を託された加藤清正が光泰の家臣を引き連れて日本に帰り、貞泰に引き渡したとある。仲の悪かった石田三成に呼ばれた後、急変して死亡したため、このような話が記されたと考えられる。
 光泰が亡くなる直前の26日の日付のある浅野長政宛の書状に「甲斐国之儀かなめ之処、其上国端」とある。光泰は、甲斐は関東の徳川家に対する最前線であり、重要な拠点と考え、若年の貞泰では荷が重く、所領を替えてもらえるよう長政に依頼している。そのため、貞泰は美濃黒野4万石に転封されたが、『北藤録』にはこれも三成の奸計であったとしている。すべては関ヶ原における敗軍の将石田三成の策略であり、加藤家の凶事の根源としている。事実は不明であるが、近世の徳川幕府のもとでは、もっともな由緒である。
 光泰の遺骸は西生浦の近くで火葬され、家臣藤田九郎右衛門久範が遺骨をもって帰国し、甲斐山梨郡板垣村の浄土宗善光寺本堂東の林に埋葬したとある。「一書ニ曰」として、最初に善光寺に入ったのは、城を遠慮してのこととあり、後に貞泰と家臣が、5尺の石碑の墓を建てたとある。この時の墓は、石垣が高く、石碑の上に六角の堂があったと書かれ、石碑には次のように記されていた。

曹渓院殿前遠州太守剛月宗勝大禅定門、於于朝鮮国釜山浦逝矣、因茲彫刻一躯以伸供養
者也
文禄二年癸巳八月廿九日

  この時、甲斐善光寺まで付き添ったと伝わる加世家に香炉が現存していると『積塵邦語』に記されている。「曹渓院様御由緒」によると、加世家の什宝として朝鮮より持参した香炉があり、光泰の年忌毎に位牌の前へ捧げ、現在の加世治郎吉の親の代まで、祥月命日には御目見、膳が下され、10人扶持であった。加世家は近江出身の初代右衛門三郎が加藤家に仕え、朝鮮出兵後、大坂の陣まで供をして、大洲で死去したとある。2代目が近江屋、5代目が紙方18人の内に入っているので、その後商人となったと思われる。
 この後、先日の加さんの「大洲藩・新谷藩加藤家墓所めぐり② 大洲藩加藤家墓所【龍護山曹渓院】」で紹介の通り、加藤家の転封に伴い、光泰の墓も美濃黒野、伯耆米子、伊予大洲に移り、曹渓院は整備されていく。菩提所の宗派も禅宗に変わった。
 そして元文4年(1739)11月、光泰の6代の孫で5代藩主加藤泰温が、甲斐善光寺の光泰の墓地を改修した。これは寛保2年(1742)の光泰150年忌に向けて行われたものであった。この時、墓石を「五輪ノ台ノ石ヲ改メテ作ル」とある、五輪塔の墓となった。その石には次のように記されている。

公為甲斐国主也、朝鮮之役将兵在釜山浦、以病卒、実文禄二年癸巳八月廿九日也、群臣奉
枢(柩)帰甲斐国葬善光寺境内
公諱光泰、封遠江守、仏諡曹渓院殿剛園勝公大居士
曹渓院剛園勝公、距今百四十七年、塋域頗損壊、乃差有司命修之
 元文四年己未十一月九日
  六代孫予州大洲城主
   従五位下遠江守藤原朝臣泰古謹誌

 その内容は、死去から帰国の状況が少し詳細になり、法号が大禅定門から大居士に変化している。また光泰の墓所が損壊したため、家臣に命じて修理したことが記されている。この墓が現在、甲府市指定文化財に指定されている光泰の墓で、五輪塔が現存している。この後文化7年(1810)4月23日、10代藩主加藤泰済は、江戸発足後、甲州善光寺の光泰廟を参拝し、木曽路、美濃路を通り、5月18日に大洲へ帰ったとある(「加藤家年譜」)。この泰済や、前回紹介した遠州藪の竹を持ち帰った家臣のように、加藤家が大洲に移って後も光泰廟への参拝が行われていたことが分かる。

 しかし今回の旅では、甲斐善光寺の光泰の墓を訪問できず、残念であった。

加藤光泰と甲府城、遠州藪 [加藤光泰]

甲府城.jpg
甲府城天守台跡

 天正19年(1591)3月、加藤光泰は近江国佐和山城の城番から甲斐24万石の国主となった。前年小田原合戦の後、徳川家康家臣平岩親吉に代わり羽柴秀勝が甲斐国主となったが、翌年岐阜に転封した。『山梨県史』資料編8によると、光泰は甲府城を普請し、寺社の郊外への移転等、国内整備を実施していく。光泰の役目は関東に移封された徳川家康の動向を監視することであったとしている。国内支配は甥の加藤光吉に郡内領4万石、弟の加藤光政に国中領の4万石、家老の大橋長兵衛に1万石を与えて担当させた。
 12月2日光泰が築城した甲府城を訪れた。晴れ渡る空の下、遠くに雪をかぶった南アルプスの山々が見えた。現在舞鶴城公園として整備されている甲府城、城の北東にあたる稲荷櫓が2004年に復元されている。稲荷櫓内には史料展示もあり、光泰の甲府城築城についても触れられていた。甲府城は光泰の後、浅野長政、徳川義直(初代尾張藩主)、徳川忠長(徳川家光弟)、徳川綱重(6代将軍徳川家宣)、柳沢吉保(徳川綱吉側用人)と、徳川政権にとって重要な人物が城主を歴任した。享保9年(1724)柳沢吉里が大和郡山へ転封後は、甲斐国すべてが幕府領となる。
 光泰は甲府城築城中、武田信玄の居城であった躑躅ヶ崎館(古府中)に居住した。宝暦9年(1759)年に成立した加藤家の家譜である『北藤録』には「甲州一国之図」「甲州古府中城同城外之図」が掲載されている。同じく『北藤録』巻之7光泰之伝中によると、古府中城について次のように記されている。
 
  又、一書ニ曰ク、古府中ノ城ハ、武田ノ居館ニ修復ヲ加ヘ、南北ノ外曲輪并堀ヲホリ石垣ヲ築テ光
  泰居城トス、光泰自ラ栽ル所ノ竹林今ニ尚存ス、呼テ遠州藪ト云フ、此竹公儀御旗竿ニ用ラレ、
  猥ニ伐取事ヲ禁セラル、古ノ士屋敷等ハ今圃トナルトイヘリ
 
 光泰は、武田の城を修復し、南北の外曲輪と堀、石垣を整備して居城とした。そして竹を植えたところ幕府の旗竿になるほどの良い竹林となり、現在では加藤遠江守光泰の官途名から「遠州藪」と呼ばれているとある。この遠州藪の竹、「力石本加藤家譜」(桜井久次郎編「大洲藩・新谷藩政編年史」)によると、宝暦12年(1762)12月、江戸の大洲藩浅草屋敷の庭に植えられている。

  藤田九郎右衛門甲州御廟所御代参、手寄ヲ以テ古府中遠州藪竹根求、浅草御庭御植サセ、後
  繁茂ス

 藩士藤田九郎右衛門が、甲斐善光寺の御廟所に代参の際に遠州藪を持ち帰り、浅草屋敷の庭に植えたところ、繁茂したとある。この竹は「堀本加藤家譜」によると、各地に分けられたようである。23年後の天明5年(1785)に9代藩主泰候が竹を吉田丸に乗せて大洲へ送り、的場に植えた。また10代藩主泰済が文化の頃に本所亀戸屋敷へも移したとある。探してみるとその子孫の竹が大洲にあるかもしれない。


加藤光泰 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。