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「温故集」にみる大洲藩主と家臣7 温故集と加藤泰候 [温故集]

 川田資哲に「温故集」の校正を命じたのは、9代藩主加藤泰候である。「温故集」の成立は、この泰候と当時の大洲藩の状況が関係していると考えられる。特にこの時期の大洲藩主は、若くして死去する者が多く、数年ごとに本家分家間で交代しており、このことが「温故集」成立のきっかけとなったと考えられる。
 泰候は、宝暦10年(1760)3月2日、6代藩主泰衑の4男として江戸で出生、幼名辰千代であり、最初斉藤氏と名乗った(桜井久次郎『大洲新谷藩政編年史』、以下の関連記事もすべて)。翌年5月10日加藤次郎四郎と改める。その後、7代藩主泰武が宝暦12年2月2日泰衑の隠居をうけ家督を継ぐが、明和5年(1768)5月22日江戸において24歳で病死した。つぎの8代藩主泰行も、翌明和6年5月8日同じく江戸において17歳で病死した。
 そのため泰候は10歳で9代藩主となる。安永3年(1774)6月25日具足召初、大橋兵部喜之が上帯、渡辺十右衛門が介添を行う。翌安永4年9月11日竹中主膳の介添による額直・袖留(半元服)の式を行った後、閏12月12日叙爵して遠江守となる。竹中主膳家は、光泰の娘が嫁いだ親類衆であった。安永5年2月19日長尾甚右衛門の介添えにより前髪をとり(元服)、6月7日江戸を発足、7月5日大洲へ初入した。幕府編纂の『寛政重修諸家譜』(巻774、13巻19頁)には幕府との関連記事として、安永4年青山主馬忠義の預かり、安永5年摂津国武庫郡、伊予国風早郡と伊予郡の領地交換、預地支配、天明7年関東川普請の3件の記述がある。
 天明2年3月7日実の祖父にあたる池之端加藤家の泰都が77歳で死去した。続けて天明4年(1784)閏1月13日には、父泰衑が江戸の浅草屋敷において中風で死去した。隠居はしていたが、57歳とこの時期の藩主と比較して長命であった。泰候は天明6年川田資哲に「温故集」の校正を命じるが、天明7年7月4日、江戸において28歳で病死する。
 この時期、大洲藩主の本家分家間での交代は、まず5代泰温が延享2年(1745)30歳で急死したため、泰衑が6代を相続した。泰衑は、分家池之端家の加藤泰都の長男であった。そして7代泰武は泰温の次男、8代泰行は泰衑の長男、9代泰候は泰衑の4男である。その後、泰候の息子10代泰済が相続し、約40年の治世となり、藩主在任が安定したといえる。
 なお泰衑の男子は、藩主を継いだ泰行、泰候以外、数多く大名・旗本家へ養子へ入っている。次男(実の長男)は下野喜連川藩の7代藩主喜連川恵氏、3男は陸奥横田の交代寄合溝口直英、5男は池之端加藤家の泰豊、6男は下野黒羽藩の11代藩主大関増業である。泰候はめまぐるしく藩主が交代し、分家池之端家出身の父が死去し、また多くの兄弟が他家の藩主や旗本の養子となるなか、加藤家と家臣の歴史をまとめた「温故集」に注目したといえる。

「温故集」にみる大洲藩主と家臣6 川田資哲と「書温故集後」 [温故集]

 この「温故集」は、大洲藩儒であった川田資哲が校正し、「書温故集後」を記している。豫陽叢書本には確認できないが、桜井久次郎『大洲新谷藩政編年史』に引用される「温故集」に記録が残る。それは天明6年(1786)閏10月、「我侯命臣資哲校正焉」と9代藩主泰候の命により、校正したとある。「温故集」は4巻、玄透野々村老人の口談であり、一二の友人がまとめたので、内容に漏れや誤謬があったとする。その校正を命じられたが、資哲は講書に忙しく、年をとり関連史料を捜すことができないので、原本の点検、是正をして献上したとある。
 資哲は、『夫子伝並従祀者略伝』に「名は資哲、字子明、為谿と号し、芝嶠と別号す、陽明学の大家川田雄琴の嫡子なり、宝暦元年家を継ぎ、大洲藩学に教授たること29年、育英大に力む、寛政5年8月19日歿す、年74、柚木村興禅寺に葬る、自従省、瓊矛草等の著述あり」とある。父が、享保17年(1732)7月、大洲藩に陽明学をもって召し抱えられた川田雄琴である。雄琴は、江戸の生まれ半太夫、資深ともいい、江戸の三輪執斎の弟子で、大洲藩の前に備中国浅尾の旗本であった蒔田権佐に仕官していた。藩校の止善書院明倫堂を設置した人物である。
 「藩臣家譜」によると、資哲は半太夫、要助と名乗り、宝暦元年(1751)父の30人扶持を相続し、安永8年(1779)2月に隠居、息子の資始が相続したが、病気のため次男資敬が天明3年に相続し、天明6年6月5人扶持を拝領した。「温故集」以外にも著作など多く、『夫子伝並従祀者略伝』の「自従省」「瓊矛草」以外に、「請献遺言口義」がある。これは延享4年(1747)6月から寛延2年2月までと、翌年の4月に請献遺言を講じた記録であり、11月「請献遺言口義」8巻にまとめた。この講義を聴いた一人が、先の神山政孝である。「請献遺言」とは、近世前期の儒学者浅見絅斎の「靖献遺言」と思われる。この書は、中国古代の屈原や諸葛孔明など、王朝に忠義を尽くした人々の伝記である。また安永8年1月には7代藩主泰武の実録である「広善院公御公実記」を完成、6月には、藤樹真蹟本「孝弟論」の巻末に識語している。藩の儒者、学者として、隠居後に「温故集」の校正に携わった。

「温故集」にみる大洲藩主と家臣5 温故集の成立と野々村光周、神山政孝 [温故集]

  「温故集」自体の成立については、神山政孝の「跋」に詳しく記され、野々村玄透の息子光周がまとめたとしている。跋の書き出しは、2で紹介した玄透に関する内容で、続いて「温故集」は、加藤家代々のことを玄透が聞き置いたものとする。そしてこれまでみたように、後に、友人や若輩の要請に応じて話したことを、傍にいた虚白などの人々が書留めたとある。
 光周が大坂勤役の際、玄透が死去し、家に帰って遺品を調べたがこの「温故集」は見つからなかった。その後、光周が60歳をこえ、玄透没後23年が過ぎた天明3年(1783)秋、偶然反古のなかに「温故集」の草稿を発見した。喜んで、友人に頼んで謄写し、父玄透のかたみとして、後世に伝えたとする。これが「温故集」再発見の経緯である。
 光周は「藩臣家譜」によると、200石、野々村彦左衛門、光遐、光英ともいう。元文元年(1736)9月22日、玄透より家督相続し、宝暦6年(1756)には御内分方格式郡方役同然となる。翌7年冬に御内用のため、大坂へ行き御留守居役を兼帯した。玄透が死去したのもこの時と考えられる。翌8年郡奉行本役となるが、明和4年(1767)願いにより御役御免、長年の勤役によって50石加増となる。また安永7年(1778)には、かねて本家の加藤光豊より願い出ていた、本姓の加藤の名乗りの許可を得た。天明2年(1782)に隠居し、隠居料として50石拝領した。「温故集」は、光周隠居直後の発見であった。これ以外に、寛延4年(1751)訂補とされる「大洲秘録」によると馬廻を勤めている。
 跋は、その後神山政孝の感想・意見が続く。神山は光周の依頼で跋を書くことになったが、「温故集」を見ると、文(装飾)がなく、質朴そのままである。後世の戒めが少なくないので、この書を読むものは茶談としないようにと記す。神山は、跋に「華瀬の老漁神山政孝しるす」とあり、城下の南の花瀬山に居住していたと考えられる。神山家は数家あるが、政孝の祖神山市郎右衛門は、美濃生れ、貞泰の黒野時代に召し出され、100石、摂津池尻陣屋で大坂御用を勤めた。
 政孝は「藩臣家譜」によると、市郎兵衛、喜学、130石10人扶持とある。寛延元年(1748)部屋住の時代に御手廻を命じられ、4人分高15石拝領、宝暦2年(1752)家督相続、引き続き御手廻勤、宝暦11年江戸元〆、明和5年(1768)郡奉行町奉行兼帯となる。安永8年(1779)病気のため役儀御免を願い出たが、保養してそのまま勤めるようにとあり扶持5人分加増、天明3年御替地の支配が認められ30石加恩された。同5年町奉行は御免となったが、御長柄組御預、郡奉行はそのまま、天明7年(1787)御長柄組を御免の後、御先手組御預となる。寛政元年(1789)これも御免となるが、御普請方支配右組御預となる。寛政3年、息子の神山定馬政寛に家督を譲る。
 政孝に関する話として、天明7年2月29日、泰候が金山出石寺に参詣した際の記録がある。この時、大洲町の組年寄長門屋久左衛門徳真が、神山市郎兵衛の命により、高山の一本杉に箱根永閑屋を写した甘酒店をつくり、称美されたという記事がある(「積塵邦語1」)。この趣向、政孝か長門屋、どちらの発案か不明であるが、江戸に行ったこともある政孝が考案したものではないだろうか。
 実は、政孝の曾祖父の兄の兵左衛門家の妻が、玄透の姉妹にあたり、神山家と野々村家は親類でもあった。また光周は郡奉行として政孝の先輩にもあたる。このような関係から、政孝が「温故集」の跋を書くきっかけになったのではないかと考えられる。

「温故集」にみる大洲藩主と家臣4 小林次秀・多田義宴・虚白 [温故集]


 玄透の会に集まった同志は、小林次秀、多田義宴、虚白の3人とあり、それぞれ「藩臣家譜」により各人について述べていく。小林次秀は、武左衛門、100石、享保5年(1720)に父清太夫から家督を相続した。小林家は、次秀の祖父金左衛門が、寛文7年(1667)150石で大洲藩に仕えた新しい家である。金左衛門の父善右衛門は広島藩浅野家に仕えており、その先祖は朝比奈と称し、浅野但馬守(長晟)とともに朝鮮出兵したと記す。金左衛門は、部屋住みで江戸に居住し、小出大隅守と内縁関係にあり、泰興の人となりを聞いて、兵助(泰興3男、池之端加藤家初代)の取りなしで家臣となった。
 小出大隅守とは、寛文8年(1668)まで和泉国陶器藩(1万石)の2代藩主であった小出有棟と考えられる。小出家と加藤家は姻戚関係にあり、小出有棟の伯父小出吉政(但馬国出石藩主)の娘が加藤貞泰の室、吉政の次男小出吉親(丹後国園部藩主)の娘が加藤直泰の室である。小出家は泰興・直泰の分知問題に際して、元和9年(1623)閏8月、泰興の家督相続に関する親族5人衆よりの定書に小出大和守(吉英)、小出信濃守(吉親)、寛永16年(1639)6月、内分書付の5人の扱衆として、小出大和守(吉英)、小出大隅守(三尹、有棟の父)が名を連ねる有力な親族家であった(「北藤録」14)。加藤家の親族である小出家を介しての仕官であった。浅野家の小林家は、善右衛門の次男伊右衛門が相続し、現在に続いていると記す。次秀自身は、村上治庵の三男で小林家の養子となっている。
 つぎの多田義宴は、与市兵衛宜清、100石、元文元年(1736)に父与市兵衛宜賢から家督を相続した。事蹟の記述はなく、安永5年(1776)息子良蔵宜兄に家督を譲っている。多田家は、義宴の5代前七兵衛が、貞泰の米子藩主時代に150石で仕えている。その後50石加増されるが、祖父の平蔵義房の代に、幼年相続のため100石となった。またこの多田家は、「大洲秘録」によると「本国甲斐多田淡路末孫」とあり、武田家臣多田淡路守三八郎の子孫の可能性があるが、詳細は不明である。義宴自身は、森権兵尚政の三男で多田家の養子となっている。
 最後の虚白は、「予陽叢書」解題では大橋虚白と推定するが、生存時期が合わず、桜井久次郎氏も「大洲新谷藩政編年史」では不明とする。大橋虚白は、作右衛門重恒で、泰興の代に家督相続している。重恒は、加賀藩大橋九郎兵衛の4男であり、2000石の大洲藩の家老家へ養子に入った。
 虚白については不明であるが、小林家は、次秀の祖父の代に新しく取り立てられた家臣であり、小林、多田両人ともに養子であるという共通点は見いだせる。それらが玄透の会の参加理由かどうか、また玄透との関係などは不明である。
 虚白は序に、つぎのように記している。

瓶笙に松風をならし、窓燈にはなを咲せて尋ねとへど、元より愚かなる我心には、住よしの岸に生てふ忘れ草のみ茂りて、樗里か囊にも保ちがたければ、硯の海に筆の釣して、形斗書とヾめぬ。

 文章全体に、和歌・謡曲、漢文などの言い回しや言葉が随所に使われている。住吉の忘れ草は、「古今和歌集」にある壬生忠岑の「住吉と 海人は告ぐとも 長居すな 人忘れ草 おふと言ふなり」など、すでに定型の言い回しであった。「樗里か囊」は、中国の秦の恵文王の異母弟であった樗里疾であり、機転が利く秦の智嚢と呼ばれていた人物であった。またこれより前の文でも、「難波の浦のよしあしいはん」とあり、謡曲蘆刈の小謡にある「むつかしや、難波の浦のよしあしも」などと関連がある。
 序の最後には、「元より温故知新の為にもあらず、過し昔のよきもあしきも、賢きも拙きも交へて爰に書留て、月日経ん後の懲し勧る一毛にもならばや」とある。昔語りを書き留めるのは、温故知新ではなく、賢も拙も後の懲し勧るための参考にとある。文末には宝暦4年(1754)9月末に、「野々村翁の亭に此会を初めぬ」と結ぶ。

「温故集」にみる大洲藩主と家臣3 加藤自専・寺西浄智 [温故集]

 「温故集」の序は、この本の成立、特に野々村玄透の会について虚白という人物が記している。書き出しには「温故知新は、人の師たるべきの道なれば、吾済如き人のおよぶべきにあらず」とある。書名の由来は、「論語」為政の「温故知新」からであり、この語に続く「可以為師」にならって、自分はその師のような人物ではないと記す。続けて、「花の夕月の夜ごと」に、親友と集まって、他人の身の上、一生の大事なことに関して善悪を物語したが問題はないとする。しかし昔のことを語るのは、人の生き方の是非をいうことでもないとも書く。
 ここで「温故集」成立の直接の契機となる、野々村玄透の勧めによって集まった会のことが記される。この会では、玄透が若い時に、加藤自専翁や寺西浄智翁などから聞いた昔のことを物語した。集まった同志は、小林次秀、多田義宴、虚白であり、席に座って聞いたが、忘れてしまうので、書き留めておいたとする。
 つぎに名前が記される人物について「藩臣家譜」「北藤録」から説明する。まず玄透が話を聞いたとする人物、加藤自専翁は、玄透の伯父にあたる加藤太郎左衛門尚秀であり、幼名亀千代、平之丞、初尚信で、隠居後に自専、茂喬と改名していた。400石の家督相続後、寛文8年(1668)御先手鉄砲25人組、寛文10年御持筒預となる。「北藤録」巻16によると、寛文11年神田橋御門番、延宝5年(1677)浅草御蔵火消番、貞享2年(1685)箭御蔵火消番を勤める。「藩臣家譜」には、その後、加藤泰恒の代に、御旗組、延宝6年御仕置役となる。この仕置役は、父太郎左衛門、息子太郎左衛門光親、孫伝左衛門謙光と4代続けて勤めている。宝永3年(1706)隠居、隠居知行100石を拝領した。そして享保9年(1724)6月25日病死、80歳であった。
 もう一人の寺西浄智翁は、寺西平治成明、加藤泰恒の代に250石の家督相続後、普請奉行を勤めた。元禄15年(1702)普請奉行を免役の際に、御先手鉄砲組預となったが、正徳2年(1712)病気のために役職を返上した。正徳5年には加恩50石、合計300石となった。「北藤録」巻16によると、貞享2年箭御蔵火消番、元禄4年(1691)浅草御蔵火消番を勤める。箭御蔵火消番の相役は、先にみた加藤太郎左衛門であった。
 元禄16年(1703)の大地震で江戸城が破損したが、この時泰恒は、一橋より雉子橋迄の石垣普請を命ぜられた。1月から6月まで普請をおこなったが、長尾半蔵とともに普請奉行となった。元禄16年の江戸詰には、玄透の父野々村彦左衛門が相役であった。また享保2年(1717)泰統は、火災焼失の鍛冶橋御門普請手伝を命ぜられ、7月から石垣、櫓の普請を実施し12月に終了した。この時も不破覚之右衛門とともに普請奉行となった。嫡子の寺西平治成雄が享保6年に家督相続しており、その後浄智と号して、『大洲秘録』「二御家中」「御家中隠居」には99歳とあり、当時としてはかなりの長寿出会った。
 加藤自専、寺西浄智ともに、享保期中頃まで長命であった人物で、玄透の伯父や、父の同役など、関係の深い人物から話を聞いていたことがわかる。

「温故集」にみる大洲藩主と家臣2 加藤平左衛門家と野々村家 [温故集]

 野々村玄透は、『夫子伝並従祀者略伝』には、加藤光泰の弟加藤平左衛門の子孫で、150石で分家した際に野々村氏と称した。これらは『大洲秘録』などの資料から引用している。寛延4年(1751)訂補とされる『大洲秘録』「二御家中」には、加藤平左衛門は「太守光泰公御舎弟」550石とある。その後、加藤伝左衛門、加藤太郎左衛門、加藤太郎左衛門茂喬と続く。この茂喬の弟が野々村彦左衛門玄俊、150石分知とあり、野々村家の初代である。この玄俊の息子が玄透で、野々村長左衛門尚住と記される。
 「二御家中」によると野々村家の現当主は、玄透の息子、野々村彦左衛門光英、150石、御馬廻、檀寺臨済宗如法寺とある。本家にあたる加藤伝左衛門(太郎左衛門)家は浄土宗大蓮寺であるが、分家と檀寺が違う。「御家中宗旨檀寺」をみると、以下のように加藤家一族のほとんどは臨済宗曹渓院である。

○臨済宗曹渓院 6家
加藤玄蕃・加藤内蔵助・加藤左盛・加藤三郎兵衛・加藤十蔵・加藤多仲
○浄土宗大蓮寺 1家 
加藤伝左衛門(太郎左衛門)家
○臨済宗如法寺 1家 
野々村彦左衛門(分家、後に加藤)

 野々村家の祖である加藤平左衛門の息子伝左衛門は、大洲藩士の家譜をまとめた『藩臣家譜』によると、はじめ桜井と名乗っていた。伝左衛門は伯父光泰とともに、14歳の時朝鮮出兵に参加した。若年の際、桜井家の養子に約束され名字も改めていた。しかし桜井家が織田信長に潰されたので養子とならなかった。加藤貞泰の時代、御先手鉄砲足軽25人組を預けられた際に、桜井家の遺跡を相続しないのに、桜井を名乗るのは申し訳ないので本名加藤に戻ったとある。
 この桜井の名字は、孫にあたる野々村家の初代彦左衛門玄俊にも引き継がれる。『藩臣家譜』によると、玄俊はつぎのように記される。

            加藤伝左衛門嫡子太郎左衛門次男
一百五拾石           野々村彦左衛門尚利
円明院様御代寛文六丙午年父太郎左衛門死去之砌、家督五百五拾石之内四百石ハ兄太郎左衛門尚秀ニ被下置、百五拾石ハ彦左衛門尚利江分知被仰付候、其後氏ヲ桜井ト改又野々村ト改号仕候 英久院様御代元禄十三庚辰年七月十一日御長柄足軽御預被遊候、正徳四甲午歳三月廿一日願之通隠居被仰付候


 玄俊は、加藤太郎左衛門の次男であり、円明院(2代藩主加藤泰興)の時代、寛文6年(1666)に父死去の際、550石を兄太郎左衛門尚秀400石、弟彦左衛門尚利150石に分知したとある。そして名字を桜井、野々村と改めているが、桜井は先にみたように祖父伝左衛門のはじめの名字である。伝左衛門の次男も桜井又六、曾孫にあたる太郎左衛門光親の弟も桜井半治である。伝左衛門家では、又六、玄俊、半治と3代続けて次男で分家するものは、桜井を名乗っている。
 玄俊は、英久院(3代藩主加藤泰恒)の時代、元禄13年(1700)7月11日に御長柄足軽が預けられ、正徳4年(1714)3月21日に隠居した。
 その息子にあたる野々村玄透は、「温故集」跋によると、「壮年より眼疾を患ひ、早く隠棲す、幼より強記にして、古今の佳話を好む」とある。眼病のため、若い時分に隠居し、幼いときより記憶力が優れ、古今の良い話、美談を好んだとする。玄透は『藩臣家譜』によると、父が隠居した正徳4年3月21日に家督相続、大心院(5代藩主加藤泰温)の時代の元文元年(1736)9月22日に隠居している。約22年間、当主であったが、どのような役職に就いていたか記録されていない。父玄俊には役職が記されているが、玄透は眼病のため、役職付きではなかった可能性がある。『大洲秘録』「二御家中」の「御家中隠居」に44名の名前があり、玄透は48歳で最年少である。ほとんど50代後半以降のなかでは異例である。このことからも早めの隠居で会ったことがわかる。

「温故集」にみる大洲藩主と家臣1 温故集と野々村玄透 [温故集]

 大洲藩の藩主や家臣の話をまとめたものに「温故集」という史料がある。戦前の昭和13年(1938)に出版された豫陽叢書刊行会の豫陽叢書9『大洲舊記・温故集・伊予国大洲領郷村高辻帳』に翻刻が収録される。全4巻構成で、内容は1巻84話、曹渓院(加藤光泰)、大峯院(大洲藩初代加藤貞泰)代、2巻38話、元和9年の円明院(加藤泰興)相続から同代、3巻48話、同じく円明院代、4巻40話、明暦3年(1657)実相院(加藤泰義)、英久院(加藤泰恒)代となり、計210話である。
 「温故集」は、宝暦4年(1754)大洲藩士野々村玄透が見聞した談話を集め、野々村没後、天明3年(1783)に草稿が発見され、天明6年(1786)に、藩儒川田資哲が校正したと「序・跋・後」に記される。「温故集」成立のきっかけとなった野々村玄透については、『夫子伝並従祀者略伝』に概略が記される。この本は、愛媛孔子祭典会が孔子卒2400年記念として大正11年(1922)にまとめたもので、当時愛媛県の郷土研究の指導的立場にあった、西園寺源透が東予・南予、景浦直孝が中予地区について執筆したとある。大洲藩は南予と考えられるので、西園寺源透が執筆したと考えられ、内容は以下の通りである。


玄秀(玄透の誤字か)、諱は直住、長左衛門と称す。其先は大洲藩主光泰の弟加藤平左衛門より出づ、平左衛門の子伝左衛門、其子太郎左衛門、其二男彦左衛門玄俊、食禄百五十石を以て分家し、野々村氏を称す。玄俊の子を玄秀とす。玄秀博覧強記にして、能く古事を諳んず。宝暦年間、同好の士、大橋虚白、小林次秀、多田義晏等と数次集会し、互に大洲に関する古事由来を探索研究す。其談話を採集筆記したるものを温古集(四巻)とす。之は専ら玄秀の講説に係るものなり、而して其事項多端にして、趣味津々たるものあり。加之、記事精核にして、地方史を研究する者の必読すべきものとす。

 野々村玄透は、加藤光泰の弟加藤平左衛門の子孫で、150石で分家した際に野々村氏と称した。玄透は、博覧強記で古事をそらんじており、宝暦年間に同好の士、大橋虚白、小林次秀、多田義晏と集会して、大洲に関する古事由来を談話した。それをまとめたものが「温故集」で、地方史研究に必読書であるとする。

大洲藩の飛地、摂津池尻村4 最禅寺・万福寺と盤珪 [大坂]

1池尻の最禅寺と盤珪

 池尻には、最禅寺という寺院がある。『角川日本地名大辞典 兵庫県』(1988年)によると、大雄山最禅寺は、はじめ最福寺、明暦年間は真言宗、天和年間は浄土宗であった。元禄5年(1692)、播磨国網干竜門寺の盤珪の弟子が住職に就くと、大洲の臨済宗如法寺の末寺となり最禅寺に改名したとある(元禄5年「寺社着込帳」池尻区有文書)。その後、幕末に曹洞宗に変わり、現在は大阪府池田市陽松庵の末寺とある。元文5年(1740)頃書写の大洲藩の地誌「大洲秘録」によると、「西禅寺 禅宗如法寺末 旦家ナシ」と記される。檀家が無いと記されており、村民は他に旦那寺があったと考えられる。
 本シリーズの1で、コメントをいただいた古結氏によると、最禅寺には大洲加藤公の位牌が祭られ、4月26日に行われる施餓鬼には、武庫川添いの武庫郡と川辺郡の特産品であった蚕豆のごはんが供されるそうだ。また、同寺は俳人鬼貫とも縁が深く、梵鐘には鬼貫の戒名が刻まれているとのことであった。
 この最禅寺の本寺にあたる如法寺は、現在も大洲市柚木富士山(とみすやま)にある臨済宗の寺院である。大洲藩2代藩主加藤泰興が、盤珪のために建立した寺である。盤珪は、盤珪永琢といい、元和8年(1622) 播磨国浜田(姫路市)で生まれ、不生禅を唱導したことで知られる。平戸、大洲、丸亀藩主の帰依を請け、各地の寺院を再興、開山している。播磨竜門寺を中心に活動し、京都妙心寺218世も務め、元禄6年(1693)9月3日播州龍門寺において72歳で没した。
 大洲藩と盤珪の関係は、如法寺末の遍照庵三世兀庵嬾徴が寛政10年(1798)に編纂した「富士山志」に詳しい。泰興は、明暦元年(1655)平戸藩主松浦鎮信を介して、盤珪に師事し、大洲に迎えることを約束した。翌年春に盤珪がはじめて大洲に来て、曹渓院に寓居した。翌明暦3年春には、泰興は、盤珪のために城下の浮舟に慧日遍照庵を創建した。そして寛文9年(1669)春富士山如法寺の建立を開始し、9月5日盤珪が入寺した。その後、仏殿、奥旨軒、十輪堂、観音堂、地蔵堂が順次落慶する。盤珪は、その後も数年に一度大洲へ来ている。

saizenzi.jpg最禅寺(1990.3.24撮影)

2宇津村万福寺 盤珪建立の寺院

 最禅寺は、このように盤珪が再興した寺院の一つであった。大洲藩領内にも、盤珪が再興した寺院は数多い。「大洲秘録」によると、如法寺の末寺は最禅寺も含めて25寺ある。最禅寺と同じく伊予国外にも、備中大仙寺という末寺があるが、ほとんどが領内である。末寺は如法寺の近辺に多く、如法寺のある柚木村に3寺、東隣菅田村、その北隣徳森村に各3寺、北隣市木村、田口村に各1寺、計11寺がある。
 末寺の建立は、「富士山志」に記される主なものでも10寺ある。年代順にみていくと、寛文7年(1667)伊予郡吾川村福田寺、浮穴郡玉谷村嶺昌寺、寛文9年(1669)3月菅田村菩提寺、寛文11年(1671)9月長浜要津寺となる。その後12年あけて天和3年(1683)宇津村万福寺、貞享元年(1684)2月新谷村善安寺、市木村安養寺、元禄5年(1692)伊予郡森村大門寺、柚木村慶福院、五郎村瑞光寺と続く(郡名のないものは喜多郡所在)。最禅寺が臨済宗となった元禄5年には、大洲藩本領でも3寺が建立されている。
 「富士山志」には、それぞれの寺院の「寺記」があり、建立経過が記される。大洲城下や如法寺から東に位置する宇津村にも、天和3年万福寺が建立された。「富士山志」には「霊徳山万福禅寺記」がある。寺記の最初には「仏智居富峯、徳化流四方」とあり、盤珪が富士山如法寺にいる間、その徳は領内四方に広まったとある。天和3年に盤珪の弟子であった「主保見叟者」が「修廃址建寺」したとある。見叟には「称勘太郎、仏智曽居清谷庵勘時詣問道」の解説がつく。見叟は、宇津村の庄屋であり大野勘太郎といい、盤珪が清谷庵にいた際に弟子となった人物であった。この万福寺は、山伏が開いた寺で、見叟が荒廃した寺を再建した。寺域は、東西120歩、南北340歩あったが、見叟が良田を寄進し、藩主に願い出て、年貢免除の如法寺末寺となった。元禄2年3月見叟が71歳で死去後、息子の大野直永が20畝の田を寄進した。直永は宝永3年9月に死去したが、見叟とともに万福寺に祀られており、大野氏の菩提寺であった可能性が高い。
 この大野見叟勘太郎は、「仏智弘済禅師法語」(『盤珪禅師語録』岩波書店、1941年、103p)に、つぎのような話が記される。

師有時予州喜多郡、清谷観音堂に棲息し玉ふ、同郡宇津村庄屋勘太郎、尋常参禅し、或は勘詰すれども、機鋒峭峻にて当たりがたし、一日吉野與次左衛門と倶に清谷に詣す、途中吉野に語て曰、我参詣するごとに、師勘太郎きたかと仰らる、今日も定て例の如くならん、師の若し勘太郎きたかと仰あらば、我曰、そう云ふ者は誰ぞと、ニ人清谷に抵る、師出て吉野に挨拶して、勘太郎には言はなし、良久して、勘太郎云く、いよゝゝ御機嫌よしやと申ければ、師曰、そう云ふ者は誰ぞと、勘太郎擬議して懺謝す

 清谷観音堂に滞在していた盤珪に、大野勘太郎が参禅し訪問したことが記される。「霊徳山万福禅寺記」の記述にも、同様に清谷で道を問うたとある。清谷は宇津村に隣接する菅田村阿部にある堂で、神南山の中腹に馬頭観音が祀られ、現在も33年に一度の開帳が行われている。
 万福寺はその後、棟札によると「霊徳山万福寺境内/庚申堂再建/安政五戊午歳三月七日吉辰初メ四月十日建/施主庄官大野藤七郎直良/大工防州八代嶋住良八造之」とある。安政5年(1858)3月7日、境内の庚申堂を庄屋大野藤七郎直良が再建した。この直良は、見叟、直永の子孫である。なお大工の良八は、「防州八代嶋住」とあるように、近世後期から明治期に活躍した長州大工である。長州大工とは、周防大島の大工が伊予や土佐へ出稼ぎしたもので、寺社建築に優れた大工集団であった(『東和町誌』資料編1長州大工、1993年)。明治5年(1872)10月の宇津村「社寺小堂絵図御届控」(旧菅田村役場文書)には2畝19歩とあり、当時まで存在したことが確認されるが、現在は廃寺となり、その場所は栗畑となっている。

大洲藩の飛地、摂津池尻村3 もう一つの飛び地南野村 [大坂]

1三給の村

 池尻村と同じく、もう一つの飛び地が南野村である。池尻村の東南、山陽新幹線のすぐ南に位置する地域である。南野村は、『角川日本地名大辞典 兵庫県』(1988年)によると、はじめ幕府領、元和3年(1617)一部が尼崎藩領、伊予国大洲藩領となり、幕府・尼崎藩・大洲藩の三給となる。その後、元禄7年(1694)幕府領分は武蔵国忍藩領、安永9年(1780)大洲藩領は幕府領(大洲藩預り)となり、文政6年(1823)忍藩領分は幕府領にもどったが、文政11年幕府領はすべて尼崎藩領となり、以後全村が尼崎藩領であった。 幕府・尼崎藩・大洲藩三給時代の村の概要をしめす史料「元禄三年南野村明細帳」(『伊丹市史』4史料編Ⅰ、365~367頁「前田俶伸文書」)が現存する。明細帳によると、領主は、幕府領の京都代官小堀仁右衛門、尼崎藩青山播磨守、大洲藩加藤遠江守であった。三給や相給など「○○給」と呼ばれる村は、複数の領主が支配していたもので、畿内近国、関東に多い支配形態である。公家や寺社など小規模領主の多い京の近郊では百給などが存在していた。
 明細帳からは、村がどのように三給になっていたかよく分かる。南野村の家数は合計131軒、その内幕府21軒(16%)、尼崎藩86軒(66%)、大洲藩24軒(18%)である。3分の2の大半が尼崎藩領、幕府、大洲藩領はほぼ同じである。石高でみると合計903.974石、その内幕府63.268石(7%)、尼崎藩743.964石(82%)、大洲藩96.742石(11%)である。8割以上が尼崎藩で、つぎに大洲藩、幕府領となる。人数は合計758人、その内幕府104人(16%)、尼崎藩516人(66%)、大洲藩138人(18%)と家数の割合とまったく同じである。家数と石高では三給の割合が少し違う。石高制が基本の近世においては、石高を基準に三給割合を決め、家や人との内訳は、村が決めていった結果、同じような割合になったと考えられる(水本邦彦「畿内・近国社会と近世的国制」『近世の郷村自治と行政』東京大学出版会、1993年)。石高や家、人口と同じように、牛馬も三給であった。ただ牛の場合は、尼崎と大洲藩の村民が共同で所持する「相合持」という制度があったことがうかがえる。以上の内容を表とグラフに表すとつぎのようになる。

表 元禄3年南野村の三給の様子
元禄三年南野村明細帳.png

2南野村の寺社

 この「元禄三年南野村明細帳」には、寺社などの宗教環境も記され、南野村には氏神が2社、寺が4軒あった。氏神は、牛頭天王社東西40間、南北25間と、天神社東西19間、南北29間であった。両者ともに「宮座之内、年老持、神主壱人」とあることから、神社の信仰集団である宮座があり、そのまとめ役に年老がいて、その宮座が所持する神社で、神主が1人いるとしている。まとめ役は乙名や年寄などとも称される場合がある。牛頭天王は祇園精舎の守護神であり、京都祇園の八坂神社、愛知の津島大社などの祭神である。薬師如来や素戔嗚尊の垂迹であり、悪疫を防ぐ神である。牛頭天王社は、昭和20年(1945)、少名彦神社を合祀し、現在は南野神社となっている。
 寺院は浄土宗知恩院末の了福寺、真宗西本願寺末の正念寺、教善寺、真宗興正寺末の善正寺がある。了福寺は僧1人、牛頭天王社の境内にあり、神仏習合の神宮寺的な存在とも考えられる。現在も南野神社と了福寺は同じ境内にある。真宗の3寺は、いずれも僧1人の他、弟子や男女数が記され道場的な施設であった。また年貢地であり、屋敷地の間数が記されている。寺のなかでは了福寺のみ年貢を免除される除地となっている。
 その他、村明細帳には、南野村の範囲が東西65間、南北300間と記される。続けて東富松村へ8丁32間、塚口村へ13丁16間など、近隣の村への距離や方角が記される。最後の奥書には作成者の名前があり、南野村庄屋新右衛門、安右衛門、弥一右衛門の3人であり、これらは幕府・尼崎藩・大洲藩それぞれの庄屋であった可能性が高い。元文5年(1740)頃書写の大洲藩の地誌「大洲秘録」によると、南野村は庄屋弥一右衛門とあり、明細帳の弥一右衛門と一致しており、大洲藩庄屋であった。

大洲藩の飛地、摂津池尻村2 大洲藩預所と加藤泰堅 [大坂]

1安永9年の領地交換

 桜井久次郎「大洲新谷藩政編年史」によると、同年4月2日「(加藤)泰候、かねて願い出た幕領南神崎村と領分風早郡小浜・粟井村・大浦村之内・摂津国武庫郡南野・池尻村との替地、この日認可され、直ちに御預所を命ぜられる」とある。大洲藩9代藩主泰候が、幕府に対して幕府領の南神崎村と藩庁から遠い風早郡と摂津国武庫郡の領地交換を願い出たものである。
 4月2日江戸留守居役の戸田正蔵は、「御勝手方御懸り御老中松平右京大夫様御用人中」から呼び出しを受け、すぐに御用人のところへ向かった(「戸田正蔵年中役用扣」)。この老中松平右京大夫は、上野国高崎藩主松平輝高である。宝暦8年(1758)から老中となり、大洲藩の替地が行われた前年の安永8年(1779)に老中首座、勝手掛を兼任している。戸田は、藩主宛の書付を受け取った。そこにはつぎのように記されていた(「戸田正蔵年中役用扣」)。

御料所伊予国南神崎村之儀、此度願之通摂州伊予国之内と村替被仰付、右摂津伊予国上ケ知高千三百五拾四石余、御預所ニ被仰付候間、御預所諸事御仕置等入念可被申付候

 大洲藩の願いの通り、伊予国小浜・粟井・大浦村、摂津国南野・池尻村計5か村1354石分を幕府領預地とし、幕府領南神崎村を大洲藩領にと決められた。この時、幕府に提出された郷村高帳には、摂津国分は池尻村503石2斗5升8合、南野村96石7斗4升2合、合計600石である。

2大坂町奉行加藤泰堅

 この交換の原因は、延宝2年(1674)年にまでさかのぼる。2代藩主加藤泰興は、二男であった加藤泰堅(慶安元年(1648)生)に延宝2年1500石を分知した。その後、泰堅は幕臣に取り立てられ、元禄2年(1689)持弓頭をへて、元禄4年(1691)1月大坂町奉行に任ぜられ、500石加増、2000石となった。しかし元禄8年(1695)11月泰堅は大坂町奉行職を免ぜられ、領地を没収、陸奥棚倉藩内藤弌信に預けられる。この免職は、『徳川実記』によると、「これは職事に怠り、かつ同僚にもはからず、新儀をおこし、属吏等に市人の賄賂をいれしめしによてなり」(常憲院殿御実紀32)とある。詳細は不明であるが、手代の賄賂事件の責任をとったと考えられる(藤井嘉雄『大坂町奉行と刑罰』(清文堂出版、1990年、407頁)。
 翌9年大洲藩は、幕府に没収された1500石分を米で返納するよう命じられる。この1500石は領内の新田高を宛てたもので、地方知行のように個別の村を指定していなかった。そのため領地没収後、最初1500石の5ヶ年平均として現米410石を大坂の代官所へ上納していたが、相場による銀納となった。宝永元年(1704)から伊予国宇摩郡の別子銅山への廻米、翌年から銀納に戻る。これが正徳2年(1712)6月、幕府から1500石の上地を命ぜられ、南神崎村を幕府領とした。寛政9年(1797)年9月の加藤作内(泰済)の「御旧領地所御願戻シ被成度願書」(「江戸御留守居役用日記」所収)に詳しい
 南神崎村は、慶長年間宮下村と上野村に分村していたが、幕府には届け出ていなかった。正徳2年に幕府領、享保9年から松山藩預地となり、支配が錯綜し、水論など発生していた。そのため、大洲藩は領地の交換を願い出て、安永9年南神崎村全村を藩領化することができた。

大洲藩領忽那.png

領地交換の村、★が南神崎村


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