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「温故集」にみる大洲藩主と家臣16 光泰と寺島家の出世のきっかけ [温故集]

 この横山城の戦いは、加藤家以外の資料で確認すると、実際には5月であり、秀吉が岐阜へ行ったのではなく、近隣の味方の救助に駆けつけ留守にした時に起こっている。『大日本史料』によると、5月6日に浅井井規が近江国鎌刃城の堀秀村を攻め、それを横山城の木下秀吉が救援した戦いであった。近世前期成立の『浅井三代記』にも光泰の戦いが記される。光泰は、野一色介七と「火花をちらしてたゝかひ」、介七の打太刀で光泰の「ひざの口をぞわつたりける」と、『北藤録』と同様の記述がある。しかしその後、介七が光泰の首を取ろうとした時、苗木左介が助けに入り身代わりに首を取られたとある。この苗木左介は、『北藤録』の「一書」という別の説として登場する。左介は、光泰と兄弟の契約をし、そのため城の塀の上から飛び降り助けに入ったが、高いところから降りたため目がくらみ討たれたとしている。
 寛延4年(1751)成立の「加藤光泰貞泰軍功記」は、ほぼ『北藤録』と同じであるが、竹中重治が門を開け助けたので敵が引いていき、光泰は九死に一生を得たとある。その後は勝政が肩にかけ救助している。幕府へ提出した「寛政重修諸家譜」には、秀吉が長浜にある時と後の時代の状況となり、朝倉義景が攻めると敵を誤記している。しかし光泰が勇敢に戦い傷を受け、竹中重治が兵を出して助けたとする一連の流れは同じである。幕府へ提出した公式な系譜集であるので、家臣である勝政の名前はない。
 この後、光泰は足が不自由となり、少し脚跛(ちんば)になるとある。この足の不自由については、『北藤録』には後日談がある。時代は不明であるが、秀吉が伏見城において光泰へ料理を下賜した際、秀吉は自ら引物を光泰へ渡した。光泰は、頂戴しようと立ち上がったが、この横山城の疵で足が不自由となり、膳をひっくり返し料理が散乱した。それを見て笑った秀吉の近臣に対して、秀吉は光泰の足の不自由は武門の崇敬すべきことと叱ったとある。秀吉の伏見城入城が文禄2年(1593)9月、光泰の朝鮮での死去が同8月なので、大坂城、聚楽第での話か、全くの創作の可能性もある。
 加藤家において、この横山城の戦いは、光泰の合戦、負傷、功績の様子が伝えられ、また地名のある知行地、与力の名前など具体的な恩賞内容が記され、光泰にとって出世の発端となる合戦と位置づけていた。その合戦で主君光泰を救助した勝政の功績は、寺島家にとっても出世の発端となった。

「温故集」にみる大洲藩主と家臣15 寺島家と近江横山城の戦い [温故集]

 加藤家家臣の知行減少の理由と考えられる、光泰の死去による甲斐24万石から黒野4万石への転封について、はっきりと記した家がある。林家と同じく加藤家の最古参の家臣で、知行が減少した寺島家である。寺島家は「藩臣家譜」によると、光泰の甲斐時代には2000石、与力10人足軽20人の御先手であったが、貞泰の黒野時代には500石になったと具体的である。この寺島家について、「温故集」では、光泰が今泉村橋詰庄から出た際の御供3人の内の1人が先祖の寺島戸一郎であったとのみ記され、それ以外の事蹟はない。しかし「藩臣家譜」『北藤録』をみると、光泰が参加した初期の合戦である近江横山城の戦いにおいて重要な働きをしていることがわかる。
 寺島家の初代とされる寺島十左衛門勝政は、「藩臣家譜」には生国を美濃国寺島村とする。この場所は、光泰の出身である今泉、橋詰に近い寺島で、現在のJR岐阜駅の北、岐阜市寺島町付近と考えられる。ここでも「温故集」と同じく、「曹渓院様濃州橋詰ヨリ初而御出之時供奉仕」と、光泰の最初の家臣であることを強調している。この後に、光泰の合戦における勝政の功績をつぎのように記す。光泰が戦場で戦った際、膝口に傷を受け、歩けなくなった。そのとき勝政は早々に駆けつけ、光泰に肩を貸して退いたというものである。しかし救出中に敵に旗指物を奪われてしまったが、すぐに奪い返しその敵を射て討ちとったする。主人光泰の救出という危険な状況のなか、大事な家の目印である旗指物を取り返したと、模範的な武士として、二つの功績が含まれている。その結果、百石を加増され、光泰が着ていた具足、長刀を拝領し代々所持してきたが、具足は火事で焼失したとある。
 この光泰の合戦については『北藤録』に詳しく、元亀2年(1571)織田信長と浅井長政・朝倉義景間の戦いであった。前年姉川の合戦で信長は徳川家康とともに、浅井・朝倉に勝利した。この時、小谷城の南にある横山城(現長浜市)の城番となったのが木下秀吉であり、その家臣であった光泰もこの城に入ったと考えられる。『北藤録』によると、この年9月横山城をめぐって織田と浅井の合戦が起こり、光泰と勝政が登場する。城番であった秀吉が岐阜へ行った留守を狙い、浅井方の浅井七郎、赤尾新兵衛が攻撃を仕掛けた。横山城留守の竹中重治は城にこもり防御したが、光泰のみ出城し、槍にて野一色助七と太刀討ちした。その際光泰は左の膝口に疵を受けて動けなくなり、そこへ寺島戸市郎勝政が肩を貸して救助したというものである。
 注釈として、寺島と竹内藤助は橋詰時代から供をし、現在竹内家は断絶したが、寺島家は、寺島溝次郎勝宣の先祖と記している。また別の説として、光泰を救助したのは大橋十蔵であり、十蔵は敵に取り囲まれて死去したとある。光泰は恩賞として、北郡の内磯野村知行700貫、与力10余人を与えられた。この与力のなかに頭の大橋長兵衛がおり、この時から長兵衛を家老としたとある。大橋十蔵は、その後、近世を通じて大洲藩の家老となる大橋家の関係者か、大橋家の功績として作り上げられた人物の可能性もある。光泰最初の合戦に対して、様々な話が語り継がれている。
岐阜信長.jpg
JR岐阜駅前の金の信長像

「温故集」にみる大洲藩主と家臣14 稲葉家と関ヶ原戦 [温故集]

 その後、稲葉長右衛門は慶長5年(1600)関ヶ原の戦の記事に再び登場する。貞泰は、関ヶ原の戦において、最初石田方として犬山城へ入るが、以前から家康と通じ、竹中重門と城を出た。9月15日合戦当日には、細川忠興、稲葉貞通とともに島津義弘と戦ったと『北藤録』に記される。長右衛門は、この時期、伏見屋敷の留守を預かり、貞泰夫人を守護していた。その間、石田方は諸大名の妻子を人質として城へ迎えるとの風聞があった。夫人はもし人質の催促があれば、自分にすぐに知らせるように命じ、そうなれば自分は自害すると伝えたとある。この「温故集」と同じ内容が、『北藤録』巻9につぎのように記されている。

又、貞泰ノ室<法眼院>ハ、稲葉長右衛門<当時稲葉八左衛門、豊矩先祖>留守ヲ預リ在伏見タリシカ、世上物騒敷、諸大名ノ妻子ヲ石田方へ迎取由風説頻リニテ甚難儀ニ及フ、内室此事ヲ聴テ、若人質催促ニ及ハ早ク告知スヘシ、自害スヘキノ由ヲ長右衛門ニ命シケレトモ、大坂ニ於テ細川越中守忠興ノ室生害アリシ故、其後ハ催促ノ沙汰モナク、其難ヲ遁シトナリ。

*<>内は割書

 『北藤録』には、この話の結末として、後半部分に大坂の細川忠興妻の自害事件が起こり、人質の催促は中止となり難を逃れたと記す。忠興妻の自害とは、細川玉(ガラシャ)が石田方の人質要求を拒否し、慶長5年7月17日死去した事件として有名である。
 「温故集」には、この貞泰夫人の人質記事に続けて、長右衛門の孫にあたる九兵衛、幼名金蔵の知行について話が進む。それによると稲葉家は、貞泰の黒野時代以来、代々500石の知行であったが、金蔵が幼年であったため、母が「幼年の者に大禄恐多候、二百石は幼年の内は御上へ御預申すべき」と願い出たとある。そのため稲葉家は現在でも200石であり、現在の稲葉八郎左衛門豊矩の先祖の話と結んでいる。林家と同じく幼年相続のため、知行が減少している事例である。
 「藩臣家譜」には、稲葉九兵衛豊長は300石であり、その理由として「九兵衛幼年ニ而御番等茂得相勤不申候」とある。稲葉家は、その後も奉行や中老職を勤め、知行は代々300石であるが、「温故集」の記述は200石と相違している。豊長の曾孫にあたる稲葉八左衛門豊矩が、7代藩主泰武の代(藩主在任1762~68)に50石加増され350石となっているが、文化、天保期には200~250石となっている。
 林、稲葉両家いずれも、甲斐24万石から黒野4万石への転封の際の急激な知行減少も反映されているのではないだろうか。

「温故集」にみる大洲藩主と家臣13 稲葉家と朝鮮出兵 [温故集]

 つぎに林家と同じく光泰以来の旧臣で知行が減少した事例として、稲葉家をとりあげる。「温故集」には稲葉家が登場する記事は4件あり、内容は、初代長右衛門の朝鮮出兵、関ヶ原の戦に関するものが3件と多数を占める。このうち朝鮮出兵の記事は、光泰が出兵する経緯とその御供、および朝鮮滞在の光泰から稲葉長右衛門宛の書状写の2件である。 「温故集」によると、光泰の出兵の経緯はつぎの通りである。光泰は、名護屋に在陣する秀吉のところへ、僅かの供で陣中見舞いに訪れた。そこへ朝鮮から軍勢の応援要請があり、秀吉は光泰に対して領国甲斐へ帰国後、家老に百騎つけて出陣させるよう命じた。ところが光泰は、自らが雑兵千人ほどをつれてすぐに出陣すると申し出た。その際、朝鮮国は寒い国なので、引き連れていくのは15~50歳までとし、老人は免除した。その供は、大橋清兵衛他7名の名前が伝わっているが、そのなかに稲葉長右衛門の息子八兵衛が含まれていた。
 この出兵の経緯について、『北藤録』巻8では、文禄元年(1592)6月に秀吉の命で加勢の軍として、増田長盛、石田三成、大谷吉継、前野長康とともに朝鮮へ派遣されたとある。秀吉への陣中見舞いの話はないが、出船前に家康と別れを惜しんだと記している。また引き連れた兵は千名と同じであるが、家老につける兵数は5、60騎と相違している。加藤家の兵員の実態は、出兵1年後の資料であるが、文禄2年5月20日の秀吉朱印状(『島津家文書』2、955)によると、光泰は釜山浦の東莱城に前野長康とともに在城し、人数1097人とあり、ほぼ「温故集」『北藤録』の兵数と一致する。
 つぎに稲葉長右衛門宛の光泰の書状の内容を紹介する。この書状では、はじめに光泰が甲斐から書状と帷子が到着したことを喜んでいる様子が記される。そして光泰が朝鮮の都漢城を4月19日に出て、5月12日に釜山へ到着、家中は無事であることを報告している。供につれていた長右衛門の息子八兵衛も健やかなので安心するようにとある。つづけて明国の「御詫言勅使」が名護屋へ向かったが、内容によっては講和とならず、帰国できない可能性があると記す。最後に甲斐国が平穏であることを慶び、朝鮮国の情勢は、光泰の弟平兵衛光政に知らせたので聞いて欲しいとある。この書状は、5月25日付であるが、明国の使者が名護屋へ向かったとの記述から、文禄2年5月15日の明との講和交渉直後に記されたと推測できる。また『北藤録』や「大洲加藤文書」にも収録されており、近世のある時期に稲葉家より加藤家へ提出された可能性もある。

甲斐善光寺と加藤光泰墓所 [加藤光泰]

光泰墓所①.jpg 
 昨年11月、甲斐善光寺にある加藤光泰墓所を初めて訪ねた。光泰の墓所は善光寺金堂の裏側にあり、甲府市の史跡に指定されている。
 加藤光泰の墓所は、高い基壇が築かれ墓の周囲には石柵、墓所前には石燈籠3基づつが左右に配置され大名家の墓所らしい風格のある場所であった。
 加藤光泰の墓碑については藤さんの「甲斐善光寺と香炉 加藤光泰の墓」で紹介のとおり、元文4年(1739)11月、大洲藩5代藩主加藤泰温が、甲斐善光寺の光泰の墓地を改修した。これは寛保2年(1742)の光泰150年忌に向けて行われたもので、「五輪ノ台ノ石ヲ改メテ作ル」とあることから、この時五輪塔の墓となった。その石には次のように記されていた。
光泰墓所②.jpg

【墓碑表面】
曹渓院殿剛園勝公大居士
 文禄二年癸巳八月廿九日

【墓碑左面】
公為甲斐国主也 朝鮮
之役将兵在釜山浦以
病卒 實文禄二年癸巳
八月廿九日也  群臣奉
枢(柩)歸甲斐国葬善光寺
境内
公諱光泰 封遠江守佛
諡曹渓院剛園勝公距

【墓碑右面】
今四百十七年 嵤域頗
損壊及差有司命修之
 元文四年巳未十二月廿九日
  六代孫予州大洲城主
   従五位下遠江守藤原朝臣泰古謹誌

 また、この光泰の墓所は、天明4年(1784)9代藩主加藤泰候の代に修復され石燈籠が奉献されているが、現在もこの天明4年の石燈籠が光泰の墓碑の両脇に残されている。
 さらに、墓碑前には「加藤駿河守藤原泰朝」と刻まれた御水盤があり、銘文から加藤泰朝が奉献したものであることがわかる。加藤泰朝は、加藤光泰の子で分家し旗本となった加藤平内家6代当主である。泰朝が、駿河守に叙任するのは天明元年(1781)であることから、この水盤は天明4年の修復の際に奉献されたものと考えられる。
 こうした光泰の墓所の前には、江戸時代に奉献された石燈籠のほかに、明治25年(1892)8月に旧大洲藩13代藩主加藤泰秋、旧大洲藩士で喜多郡長を務めた陶不窳次郎(明治25年当時は山梨県警部長)、大洲藩士が奉献した燈籠が残されている。明治25年は加藤光泰の300回忌にあたり、これに伴って石燈籠の奉献が行われたものであると考えられる。中でも加藤泰秋と藩士奉献の燈籠の土台には、藩士の名前が列記されており、明治以後も藩祖光泰を顕彰しようとする動向が残っていたことが伺われる。

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「温故集」にみる大洲藩主と家臣12 旧臣林家の知行減少  [温故集]

 これまで「温故集」の概要、背景について考察したが、これ以降本文に記される各藩士家の伝承について分析したい。まず最初に、知行が減少した事例として、光泰以来の旧臣林家をとりあげる。巻一の最初に、林家の先祖に関する話がつぎのように記されている。

林市郎左衛門祖孫太夫といへるは今泉村の大工也、作内様御出入せし故公仰けるは、我もし一城の主とならば汝も知行望にやと仰有しに孫太夫答けるは、何として城主と成給はんや若城主となり給はヾ七十石ばかりも給へかしと申けるとぞ、之に依て旧臣ながら林の家今に小禄にて百石に足り申ざる也

 林家の祖孫太夫が大工をしていた今泉村は、美濃国厚見郡に属し、現在の岐阜市中心部にあたる。『北藤録』によると、光泰(作内)の祖父景秀の代に、安房国から今泉村橋詰庄に移り、父景泰の代に70貫を領する在地土豪であったと考えられる。孫太夫は、光泰と同郷であり、加藤家最古参の旧臣であるが、禄高が100石に満たないとある。その理由として、光泰が出入りしていた孫太夫に、自分が一城の主となったら知行はいくら欲しいかと聞いたところ、孫太夫はあまり信じていないようで、70石もあれば十分と答えたことが要因だとしている。
 この「温故集」が記録された時期、林家は林市郎左衛門山綿が享保17年(1732)80石の家督を相続し、明和元年(1764)に隠居しており、実際に「小禄にて百石に足り申ざる」状況であった。しかし「藩臣家譜」によると、林家はもとは300石の禄高であった。「藩臣家譜」には孫太夫の一代前、林與左衛門山茂の記述が最初で、美濃林屋敷生まれ、光泰と同じ橋詰に住居し知行高は不詳であるが、「曹渓院様江御出入仕候処、永録年中ヨリ御奉行仕候由伝承」と、「温故集」と同様の出仕状況が記される。孫太夫山利は、知行300石、光泰に奉公し各戦の陣、朝鮮出兵にも御供をした伝承があり、後に貞泰に仕え黒野に移ったとある。孫太夫が死去した後、子の又右衛門が幼年だったため、父与左衛門山茂が慶長12年(1607)再び家督を相続し、米子・大洲へと従った。しかしこの時、知行が半減し150石となった。子の又右衛門山統は、泰興の代に家督相続したが、知行はまたも減少し65石となった。そして寛文2年(1662)に隠居した。 その子又右衛門山竹の代には、故障があり暇(解雇)となったが、その後藩に帰参したとある。その子の惣右衛門山朗は、泰恒の代に家督相続し、泰統の代に知行が15石増加した。また又右衛門の三男西野惣内、四男小島平兵衛が別家を立て、旗本となった加藤泰堅に仕えることとなった。その後、先述した市郎左衛門山綿が継ぎ、次の代の又右衛門重穏は、明和元年(1764)家督相続後、天明7年(1787)旧臣という「家筋之義被思召」により、20石加増され100石になり、寛政11年に隠居した。このまま知行が復活するかと思われたが、その子又七郎山成が寛政11年(1799)に家督相続後、知行が召し上げられ10人扶持となった。そして名字も斉藤と改めている。最古参の旧臣といえども、幼年や故障があり、徐々に知行が減少し、順調に知行を維持できない場合もあった。
 しかし又右衛門の息子で別家を立てた西野惣内は、加藤泰堅に仕えて後、泰堅の改易のため本藩の中小性となり、その後大坂留守居役15人扶持の知行となった。養子の兵右衛門臣恭は、享保20年(1735)家督相続し、本姓の林と改名、寛保2年(1742)江戸元〆役、江戸定府となり、新知100石を知行した。宝暦元年(1751)郡奉行、役中5人扶持増加し、再度江戸元〆役定府となり、合計100石5人扶持と、林本家の石高をこえた。同じ又右衛門の息子、小島平兵衛家は18人扶持と知行は増加していないが、西野と同じく、加藤泰堅に仕えて後、泰衑の次男で下野喜連川藩の7代藩主となった喜連川恵氏に仕えるなど、西野、小島両家ともに旗本になった泰堅家の経験を活かし、大坂、江戸などで、藩の外交に関する職に就いたと思われる。そのため実績に合わせて、知行も林本家をこえたと考えられる。

「温故集」にみる大洲藩主と家臣11 光泰・加藤家に関する顕彰と統制 [温故集]

 つぎに2藩祖である光泰や藩主家に関する顕彰・統制に関しては、天明期以前に戻り、泰衑から泰候までの30年間を概観する。宝暦元年(1751)2月9日泰衑は、「光泰貞泰軍記」を完成させる。この「光泰貞泰軍記」は、「加藤光泰貞泰軍功記」として『続々群書類従』3、史伝2(国書刊行会、1907年)に収録されている。内容は、同じ時期に編纂され宝暦9年に完成した「北藤録」の6~9巻「光泰、貞泰之伝」と同様である。奥書には、「系図并二代之軍功」とあり、軍功記の前に系図があったと思われる。続けて、二代の事蹟は家伝書や家臣が所持する書付などに詳しく記されているが、知られているのに記されていないことが多い。そのため自分がまとめた、としており、泰衑自身の筆と考えられる。
 この『続々群書類従』には、「曹溪院行状記」「加藤家譜」も収録される。いずれも内容は「北藤録」と同様であるが、「曹溪院行状記」の書き出し部分が、「北藤録」には「一書ニ曰、光泰遺骨ヲ甲州」と記されている。これらの史料は、「北藤録」編纂時に利用されたと考えられる。「加藤家譜」は、万治3年(1660)に加藤泰義から山崎闇斎に依頼して作られており、「北藤録」15巻に収録されている。泰義は2代藩主泰興の嫡男であったが、病死したため藩主とならなかった。しかし泰義は、「加藤家譜」以外にも、万治元年山崎闇斎に光泰所持の論語・孟子の「書加藤家蔵論孟」、寛文7年(1667)林春斎に光泰の片鎌槍の「倒韓槍記」と、光泰の顕彰を学者へく依頼している。『続々群書類従』の例言によると、いずれも大洲曹渓院所蔵とあり、同寺の僧が記したものと推定している。
 宝暦12年7月17日には伯耆米子の清洞寺が、光泰墓所の掃除料を願い出て、藩は12両を寄付した。清洞寺は、貞泰の米子時代の関連と考えられる。現在は清洞寺は廃寺となり、その跡は米子市の指定史跡となっている。その史跡説明によると、慶長15年(1610)貞泰が光泰の菩提を弔うために本源寺を開いた。その後、元和3年(1617)に池田由成の代に海禅寺、寛永9年(1632)に荒尾成利の代に禅源寺となった。その禅源寺が移転した後、荒尾氏の重臣村河氏が、この地に清洞寺を移し菩提寺にしたが、明治以降廃寺となった。現在、境内跡には3つの五輪塔があり右のものが、貞泰が光泰の供養のために作ったとされる。「北藤録」8には、光泰の墓所は甲斐善光寺から美濃黒野、伯耆米子へと貞泰の転封にともない移転したが、この米子で曹渓院となり九岳和尚を開基とした。墓所は、大洲へ移転したとされているが、甲斐の墓所と同じく、この五輪塔が墓所と認識され掃除領を寄進したとのではないだろうか。
 12月には甲斐古府中の光泰居城址の竹を取り寄せ、浅草藩邸の庭に植えている。光泰は天正18年(1590)甲斐一国24万石を領しており、当時居住していた古府中の竹である。「加藤光泰と甲府城、遠州藪」に記しているが、この竹は遠州藪と呼ばれ、浅草藩邸に移した後、天明5年泰候が竹を吉田丸に乗せて大洲へ送り、的場に植えている。 泰候が藩主就任後も顕彰は続き、安永8年(1779)11月19日には、光泰の木像が京都で完成し、確堂和尚が上方から随従して帰った。天明4年(1784)7月19日には、曹渓院・法眼院は、光泰および貞泰室の法号なので、以後、両寺はその山号を称するように布達された。12月泰候は、甲斐善光寺の光泰の御廟所を修復し、石燈籠を献納した。天明6年9月2日同じく泰候は、光泰・貞泰両代召し抱えの家士を残らずを呼出して、大洲城の書院において「北藤録」の両代伝書を読みきかせている。11月28日藩は、御目見以上の者に、藩主の代々の諱字を憚るように令達した。
 このように泰衑から泰候までの30年間で、藩祖光泰を中心に歴代藩主の顕彰・統制が進められた。これらは藩主が頻繁に、そして本家分家間で交代し、藩主家の不安定さを払拭することを目的にしたのではないかと考えられる。

「温故集」にみる大洲藩主と家臣10 在地の秩序維持と回復 [温故集]

 これまで天明期の災害をみてきたが、藩ではこの時期に災害や、経済、社会の変化による世情不安や在地の秩序回復の対策を実施している。これを分類すると、1藩体制や在地の秩序維持、序列の再確認、人心掌握と、2藩祖である光泰や藩主家に関する顕彰・統制である。
 まず1では、天明4年5月、火災・不慮の備えとして、村々に人数割を命じ、組を組織した。伊予郡を中心とする替地における組の役割は、「御茶屋近辺火災、或者替地江殿様御出之節夫遣、并砥部内御鹿狩又者御城下御狩等ニ呼出候儀も可有之旨」と、火災、殿様の巡見、狩等であった。この組は、御狩勢子割として村を中心とした美組・余組25人ずつの14組各350人、計700人。火消組は湊町・灘町・三島町を中心とした待組として25人ずつの4組100人、総計800人の編成であった。藩は組を編成しているが、これによって村人が武用に走ったり、衣服や家などを華美にしない、大勢で高声を出し村方を騒動させないよう達している。
 7月には家老の命として、郡奉行は代官・庄屋役人に対して、古格旧例になじまず実意をもって事にあたるよう諭告をした。この触のなかで、領内に生まれた者は、俸禄がない庄屋であっても、御上を大切に心得るように、現在の衣食に不自由しないのは、土地の御恩であるので、軽卒に考えてはならないと記す。何かと古格旧例を持ち出す代官・庄屋役人に対して、現在の体制や秩序を維持するよう指示した内容といえる。
 天明5年3月3日、泰候、節句の挨拶をうける範囲序列を改め、11月28日には藩主への挨拶言上の際、平士は禄高順に出るようにと達がでており、藩士の儀礼の場においても、秩序の遵守を図っている。また泰候は、6月に八幡宮へ鳥居を、8月1日には上吾川村伊予岡八幡宮に絵を寄進した。これらの目的は寄進による神仏の加護や、藩士や領民の人心掌握などが考えられる。10月藩は、領民へ父母に孝行、御上を大切、夫婦仲良く、兄弟むつまじく、親類や友人に親切にと、5箇条にまとめて訓諭した。この内容は、儒教の教えである六行の孝・友・睦・姻・任・恤の、恤以外にあたっている。触には続いて、先年7月と同様の、御上の御恩は、領内に育った者は先祖より受け継いでおり、御上の恵みを心得て、今日を大事に暮らすよう記されており、再度現在の秩序を維持するよう指示している。天明6年5月27日藩は、領中庄屋らの御礼を、帰城・年始両度に請けることとした。12月16日先の内容をうけて、藩は替地庄屋の年頭御礼の順序書を示している。

「温故集」にみる大洲藩主と家臣9 天明6、7年の大洲藩と災害 [温故集]

天明5年(1785)は、災害は起こらなかったが、8月25日藩士への充行は昨年通りと達せられた。米豆相場は、天明4年米110匁、豆100匁であったが、5年には米90匁、豆110匁と、米は下がり、豆は上がっている。前年までの気候不順の影響は続いていた。
翌天明6年7月2日、大洲は雨天続きとなり、八幡宮で晴の祈祷が行われた。続いて7月13日江戸でも、暁より雨が降り19日大洪水となり、大洲、新谷藩屋敷は床上まで浸水した。この雨の影響か7月27日藩の替地(伊予郡)代官所は、稲の虫害防除のため村々に鯨油を世話している。代官所では領内の鯨油流通を心配し、瀬戸内方面で調達を行い、わずかに9挺(1挺あたり3斗9升入)を得た。8月25日引き続き藩士への充行は、昨年通りとなった。米穀の相場は、米130匁、豆92匁、5年に比較して米は1.4倍上昇している。
川田資哲によって「温故集」が完成したのは、この年の閏10月であった。しかし、災害は引き続き、翌天明7年には大規模な災害が発生している。まず4月6日雨が降り続いて麦作に支障がでたので、金山出石寺において晴御祈祷が行われた。以前にも記したが同年2月29日に、泰候が出石寺を参詣しており、出石寺での祈祷は何らかの関連があったと考えられる。4月25日には強雨で洪水となり、出水2丈9尺5寸(8.9メートル)、死者が5人もでており、藩は床上浸水の家中に手当を与えた。
 4月28日宇和島藩の「村候公御代記録書抜」によると「此間之大雨大洲洪水、須合田辺大水之由」と記す。その宇和島藩でも、大雨による潰抜が各浦で発生し、計10人の死者が出た。6月13日の江戸留守居役から幕府に提出された出水被害届にも、山津波の状況が記される。洪水の前々日23、24日は季節と違い酷暑となり、夜に大雨が降り25日朝急に洪水となった。そして山や平地から水が湧き、山津波が発生し、領内各所の堤や道橋に被害が及んだ。ちょうど田植え時期であったため、苗・苗代が流された他、田に砂が入り復旧の見通しが立たない場所もあった。その上、3月頃より雨が続き、麦が不作のところに洪水で水腐りとなり、野菜も同様の状況となり、食料生産全体に打撃となった。 城内にも水が押し入り、溺死者も数多く、損毛高も不明であり、藩は「是迄無之洪水」と記している。新谷藩では6月16日新谷稲荷屋利右衛門が「大飢饉」のため飢人へ、銀を差し出している。これより前に大洲藩は、幕府より関東や伊豆の川普請を命ぜられており、「莫大之物入」と記しており、現実より過大な申告とも考えられる。しかし翌8年1月14日の報告では、損毛高は田16055石、畑10203石、井関の破損4853ヵ所、堤の破損19648間、山崩れ10602ヵ所、流家115軒、潰家333軒、倒木540本とあり、被害の大きい洪水であった。洪水後の7月4日泰候は28歳の若さで死去する。

「温故集」にみる大洲藩主と家臣8 天明2~4年の大洲藩と災害 [温故集]

 つぎに「温故集」の成立の背景として、当時の大洲藩の状況についてみていきたい。この時期、近世の3大飢饉のひとつ天明の飢饉が全国規模で起こった。すでに『大洲市誌』や『愛媛県史』近世下にも指摘されるように、大洲をはじめ伊予諸藩でも、災害が多発し飢饉が続いた。桜井久次郎『大洲新谷藩政編年史』によると、天明期には災害とそれに関する法令が数多く見られる。
 天明2年(1782)7月22日、大洲では大風雨となり、肱川の出水1丈7尺(5.2メートル)、8月20日にも大風雨で、出水1丈5尺(4.5メートル)、翌天明3年8月12日には、2丈8尺(8.5メートル)もの大洪水となった。藩では、洪水時の肱川の増水を計測しており、元禄2年(1689)7月17日の洪水2丈3尺8寸(7.2メートル)の記録以降、幕末まで「加藤家年譜」「大洲商家由来記」に記される。『愛媛県史』近世下(477頁)にまとめられた肱川の出水量の図をみると、天明期を境に幕末まで、2丈5尺を越える洪水が多発している。
 この8月12日洪水以前の、3月6日にも藩は、領内の難渋者に対して、2ヶ月間1日1人前米5勺ずつを支給すると触を出している。そこには「追々願有之候難渋者」「及飢体相成候而者不相成」と、前年の洪水の影響か難渋者が増加している状況、その上で飢饉を未然に防ごうとする様子が記される。そして前年度の倍近い出水となった8月12日以降、21日には、家臣に対して節約のため、充行は100石に付9人扶持との達が出た。27日には領民に対しても、藩財政急迫のため、家中の充行の引き下げの例を出し、領内も倹約するように触が出ている。財政悪化の理由は、災害だけではなく、御内辺差し支えなど幕府からの公役(安永8年(1779)参向伝奏御馳走役など)等も原因であるが、「村々不作等打続」と、不作も一因と考えられる。この年の12月3日には、当年は格別の節約となり家中が難渋をしているとして、心附けとして1ヶ月分程充行を追加する達が出た。
 つづく天明4年1月には、藩は領内に対して、米や雑穀の他領への移出を禁止する津留や、さらなる節約を命じた。その理由には、「去年以来諸国一統米直段別而高直」と全国的な米価の高直のため、「御領内迚も困窮強ク借用筋茂差支、村々飯料甚無覚束候」と領内の困窮、食料としての米の減少であった。そのため津留の他、伊勢参宮禁止や普請の延期、婚礼や衣類の質素が命じられた。実際に宝永3年(1706)以降、毎年記録のある米豆御蔵相場をみると、天明元年米78匁、豆74匁が、天明3年には米110匁、豆90匁と、約1.4倍になっている。
 6月には、藩は幕府が出した米価暴騰による米買占や徒党暴動の禁止、時疫流行の薬の触を領内にも通達した。この時期、全国的な不作による米価暴騰が問題になっていた。流行病である時疫薬の製作法は、以前の大飢饉である享保飢饉の際に出された触であり、幕府も飢饉を警戒していたと思われる。
 6月6日には、長く雨天が続き、大洲八幡宮で晴御祈祷があった。長雨による洪水を未然に防ぐため、藩主導で鎮守の八幡宮に祈祷した。この年、洪水はなかったが、8月21日前年と同様、藩は財政差支のため、充行は100石につき20石となった。

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