川田資哲に「温故集」の校正を命じたのは、9代藩主加藤泰候である。「温故集」の成立は、この泰候と当時の大洲藩の状況が関係していると考えられる。特にこの時期の大洲藩主は、若くして死去する者が多く、数年ごとに本家分家間で交代しており、このことが「温故集」成立のきっかけとなったと考えられる。
 泰候は、宝暦10年(1760)3月2日、6代藩主泰衑の4男として江戸で出生、幼名辰千代であり、最初斉藤氏と名乗った(桜井久次郎『大洲新谷藩政編年史』、以下の関連記事もすべて)。翌年5月10日加藤次郎四郎と改める。その後、7代藩主泰武が宝暦12年2月2日泰衑の隠居をうけ家督を継ぐが、明和5年(1768)5月22日江戸において24歳で病死した。つぎの8代藩主泰行も、翌明和6年5月8日同じく江戸において17歳で病死した。
 そのため泰候は10歳で9代藩主となる。安永3年(1774)6月25日具足召初、大橋兵部喜之が上帯、渡辺十右衛門が介添を行う。翌安永4年9月11日竹中主膳の介添による額直・袖留(半元服)の式を行った後、閏12月12日叙爵して遠江守となる。竹中主膳家は、光泰の娘が嫁いだ親類衆であった。安永5年2月19日長尾甚右衛門の介添えにより前髪をとり(元服)、6月7日江戸を発足、7月5日大洲へ初入した。幕府編纂の『寛政重修諸家譜』(巻774、13巻19頁)には幕府との関連記事として、安永4年青山主馬忠義の預かり、安永5年摂津国武庫郡、伊予国風早郡と伊予郡の領地交換、預地支配、天明7年関東川普請の3件の記述がある。
 天明2年3月7日実の祖父にあたる池之端加藤家の泰都が77歳で死去した。続けて天明4年(1784)閏1月13日には、父泰衑が江戸の浅草屋敷において中風で死去した。隠居はしていたが、57歳とこの時期の藩主と比較して長命であった。泰候は天明6年川田資哲に「温故集」の校正を命じるが、天明7年7月4日、江戸において28歳で病死する。
 この時期、大洲藩主の本家分家間での交代は、まず5代泰温が延享2年(1745)30歳で急死したため、泰衑が6代を相続した。泰衑は、分家池之端家の加藤泰都の長男であった。そして7代泰武は泰温の次男、8代泰行は泰衑の長男、9代泰候は泰衑の4男である。その後、泰候の息子10代泰済が相続し、約40年の治世となり、藩主在任が安定したといえる。
 なお泰衑の男子は、藩主を継いだ泰行、泰候以外、数多く大名・旗本家へ養子へ入っている。次男(実の長男)は下野喜連川藩の7代藩主喜連川恵氏、3男は陸奥横田の交代寄合溝口直英、5男は池之端加藤家の泰豊、6男は下野黒羽藩の11代藩主大関増業である。泰候はめまぐるしく藩主が交代し、分家池之端家出身の父が死去し、また多くの兄弟が他家の藩主や旗本の養子となるなか、加藤家と家臣の歴史をまとめた「温故集」に注目したといえる。

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